Make a palindrome in Hokku poetry
(廻句)
この作品を讀む時に、この音樂を聞きながら鑑賞して下さい。
これは自作(オリジナル)の
『Motion1(Mirror) &(Substance) 曲 高秋 美樹彦』
といふ曲で、YAMAHAの「QY100」で作りました。
映像は伊丹にある、
『柿衞文庫』
へ出かけた時のものです。
雰圍氣を味はつて戴ければ幸ひですが、ない方が良いといふ讀者は聞かなくても構ひませんので、ご自由にどうぞ。
Thesis of character play by Hokku poetry
(雜 俳 考)
俳諧の中には『雜俳』といふものがあるが、それは、
「前句附(まへくづけ)・冠附(かんむりづけ)・沓附(くつづけ)・折句(をりく)(岩波古語辞典)より」
などといふものの總稱(そうしょう)の事である。
先づ、「前句附」とは何かといふと、
『短歌に於ける上句または下句のいずれかを課題として、一半をつけて一首に纏めたものの事であり、例を掲げれば、
鳥なき里の其方(そち)は蝙蝠(かうもり) (前句或は課題)
いろは知る妹(いも)は家内の文殊也 (附句)
これが前句附というもの (国文学史の研究 塩田良平)』
で、川柳はここから派生した樣式(ジヤンル)であるのだが、俳諧の連歌の一部を切取つたものと思へば間違ひはないだらう。
次の「冠附」といふのは、
『五文字を課題として、七五句をつけて一句に纏めたもので、
まんまるな (冠)
でべそをかしき昼寝哉 (附句)
このようなものを「冠附」という (国文学史の研究 塩田良平)』
三つ目の「沓附」は、
『「前句附」と同様に五文字を課題とするが、違うのはその五文字が下句にあって、上句と中句に五七句をつける所である (国文学史に研究 塩田良平)』
次の「折句」は、
『三文字を与えられて、その字を各句の冒頭に置くもの (国文学史の研究 塩田良平)』
で、例へば「ゆたか」といふ文字に、
(ゆ)ふだちや (田)をみめぐりの (神)ならば 其角
と詠む類(たぐひ)のものであるが、これは短歌の場合には「五文字」を貰つて、その各句の冒頭に詠み込むといふものがあるし、「十文字」を各句の「冠」と「沓」に詠み込むといふ凄いものまである。
因みに、この『折句』によつて創作されたのが、
敍事短歌(Tanka epic)『愛二飢タル男Love-hungry man(AIUEO)』
である。
餘談はさておき、この『雜俳』の中に、餘り知られてゐない「廻文」といふ面白いものがある。
敍事短歌(Tanka epic)『愛二飢タル男Love-hungry man(AIUEO)』
餘談はさておき、この『雜俳』の中に、餘り知られてゐない「廻文」といふ面白いものがある。
「廻文」とは、上から讀んでも下から讀んでも同じ文章になるものの事で、一般によく知られてゐるものに、次のやうなものがある。
たけやぶやけた(竹藪燒けた)
このよく知られた一文は、上から讀んでも下から讀んでも同じ文章であるが、これを「發句」若しくは「短歌」で詠まうとすると可也難しく、御負けに、一般の文章と「發句」や「短歌」との區別が附け難(にく)いので、「發句」は『廻句』と呼び、「短歌」は『廻歌』とここでは稱する事にする。
筆者の手持ちの資料の一部を示せば、『廻句』には次のやうなものがある。
池の端(は)に雪やはや消ゆ庭(には)の景
木か竹か見すかす霞影高き
神の留守遠く吹く音するのみか
啄木鳥(きつつき)の飛ぶや小藪と軒つづき
消ゆるこの山の木の間や殘る雪
草の名は知らず珍(めづら)し花の咲く
下駄はくな鶯(うぐひす)低(ひく)う啼く畑
以上は『修養全集第三卷(金言名句 人生畫訓)』から引用したもので、『廻句』は全部で十四句あり、相撲の番附表を借りて記されてゐ、東西の横綱はいづれも短歌が場所を占め、「池の端は」と「神の留守」の二句は前頭に位置されてゐる。
創作するのが更に難しいだらうと思はれる、前頭から横綱までを占める『廻歌』は、全部で十二首掲げられてゐるが、その外に單なる「廻文」といふものが四つあり、これらの文章は歴史的假名遣でなければ成立し得ないもいので、「じ」と「ぢ」や、「ず」と「づ」の違ひを書分けられないものや、濁點の問題(嘗ては濁點を記さない表記が主流であつた)もあつて、音聲に頼るといふ意味では現代假名遣でなければ、うまく表記出來ないと事も考へられるから、こんにちでも創作する事が可能であると言へるのではあるまいか。
どなたか作つてやらうといふ物好きな方はゐないだらうか。
最後に、『修養全集第三卷(金言名句 人生畫訓) 大日本雄辯會講談社』からの「廻文番附」を掲載したいのは山々なのだが、著作權の問題もあるのでそれは差控へて、その換りに筆者の『廻句』を發表して行きたいと思つてゐる次第である。
§
人間といふ動物は、他の動物に比べて壽命が長いやうに思はれる。
大體(だいたい)が個の存在は、種の存續の經過的な形態としてあり、
昆虫のオスなどはメスと交尾したあとは、養分として食べられてしまひ、
次の世代に命を繋ぐ個としての役割を甘んじて受入れてゐる。
さういふ意味において、無駄に長生きをする人間はなんの爲に生きるのか!
勿論、愉しむ爲以外には有得ないと言つても差支へないと言へるだらう。
遊びこそは人間に許された、究極の智的な快楽であらう。
例へば、文學では、廻文といふものがあり、
音樂では、巴哈(バツハ/ Bach・1685-1750)に次のやうな作品がある。
A,この提示された楽譜は、最後まで行くと逆行して最初まで戻るのである。
B、これは最後から逆行して最初まで行くと、また逆行して最後へと戻るのである。
これが(A)と(B)を合せた音樂で、これは廻文(廻音)にはなつてゐないが、高度な遊びだとは言へるだらう。
これは『音樂の捧げ物(Music offering)』といふ作品の中の「逆行追復曲(カノン・Cannons diverisu)」といふ曲だ。
バッハにはこの外にも「螺旋遁走曲(フウガ・Ascendenteque Modulatiore ascendat Gloria Regis)」といふ曲があつて、一つの旋律が「ド」から始まつり、「レ」から順に音階が上がつて行き、
バッハにはこの外にも「螺旋遁走曲(フウガ・Ascendenteque Modulatiore ascendat Gloria Regis)」といふ曲があつて、一つの旋律が「ド」から始まつり、「レ」から順に音階が上がつて行き、
上の「ド」の音に辿り着いて終るといふ螺旋階段のやうな曲もある。
この外いろんな遊びを、たつた一つの旋律でくり廣げるのである。
この外いろんな遊びを、たつた一つの旋律でくり廣げるのである。
『フウガの技法(Die kunst der Fuge)』といふ別の作品では、「Bach」といふ名前を音名に當嵌(あては)めて、
對旋律(たいせんりつ)として曲を作つてゐるし(但し未完)、
『馬太(マタイ)受難曲(Matthaus passion)』
では、耶蘇基督(イエスキリスト)が十字架に架けられた場面の時には、
樂譜上で十字架の形になるやうに筆記されてゐたり、
と遊びまくつてゐる。
さればいざ、筆者、不忍も!
§
Make a palindrome in Hokku poetry
(廻句)
『廻文(くわいぶん)』とは上から讀んでも下から讀んでも、或は右から讀んでも左から讀んでも同文・同文句になるやうに書かれた文、それを『廻文』といひます。
大和言葉で『まはしぶみ』。
雅(みやび)な風流びとはここまで言葉を研(と)ぎ澄まして遊び暮してゐました。
この間、江戸の遊郭にタイムスリツプしましたが、深雪大夫の教養の高さには目を瞠るものがありました。
それを發句で詠むのを『廻句』と勝手に命名しました。
さあ、みなさんもご一緒に!
§
今朝死んだ母がわが母男子酒
いきなりで不謹愼な句となつてしまつた。
「けさ(今朝)」と「ざけ(酒)」の部分が濁點のあるなしで不滿は殘るが、舊い表記では濁點をつけなかつたのでといふ言ひ譯で逃げておく事にする。
§
池の邊の蟲をや惜しむ野邊の景 不忍
§
今朝にこそ躑躅恥つつそこに咲け
この『廻句』には問題點(もんだいてん)があつて、それは、
『躑躅・恥』
といふ二つの言葉を現代假名遣で振假名(ルビ)をつければ、
『躑躅(つつじ)・恥(はじ)』
となるので、
「つつじはじつつ(躑躅恥つつ)」
であるから、『廻句』として問題はないのだが、筆者の基本とする表記法である歴史的假名遣にすれば、
『躑躅(つつじ)・恥(はぢ)』
となつて、
「つつじはぢつつ(躑躅恥つつ)」
となつてしまふからである。
讀者の中には、細かい事を氣にしなくても良いのぢやないかといふ人があるかも知れないが、作品の出來としては納得してゐる譯ではない。
それといふのも、前囘の廻句で、
池の邊の蟲をや惜しむ野邊の景
といふのを發表したが、この時は歴史的假名遣で、
『惜(を)しむ』
と表記したからこそ、
「むしをやをしむ(蟲をや惜しむ)」
と、『廻句』としての完成度を手に入れられたのであるが、これが現代假名遣だと、
『惜(お)しむ』
となるので、
「むしをやおしむ(蟲をや惜しむ)」
となつて、『廻句』としては不完全なものとなつてしまふ事になる。
これは、今後も起こり得る問題で、
「じ・ぢ」
「ず・づ」
「は・わ」
「お・を」
「じや・ぢや」
「う・ふ」
「て・ちや・ちよ」
これらの現代假名遣と歴史詩的假名遣、さらに字音假名遣の表記法の差によつて生じる混在(こんざい)が、吉と出るか凶と出るかで、今後の『廻句』としての存續(そんぞく)が左右されると考へてゐるのだが、それよりも何よりも、これ以降に發表するだらう筆者の作品にも、このやうな問題を孕んでゐる事は返す返すも殘念な事である。
といふのも、時に應(おう)じて、都合良く立場を使ひ分けるのは、實(まこと)に忸怩(ぢくぢ)たる思ひがするからである。
§
水澄まし知らず珍し島涼み
この『廻句』も、前囘よりも更に増えて二箇所の問題がある。
『水・涼み』
『知らず・珍し』
これらのそれぞれが、
『みずすまし(水澄まし)・涼み(すずみ)』(現代假名遣)
『みづすまし(水澄まし)・涼み(すずみ)』(歴史的假名遣)
となり、もう一つも、
『知らず(しらず)・珍し(めずらし)』(現代假名遣)
『知らず(しらず)・珍し(めづらし)』(歴史的假名遣)
となつて、
「みずすまししらずめずらししますずみ(水澄まし知らず珍し島涼み)」(現代假名遣)
このやうに現代假名遣だと完璧だが、
「みづすまししらずめづらししますずみ(水澄まし知らず珍し島涼み)」(歴史的假名遣)
歴史的假名遣だと、
「みづ・みず」
「らず・らづ」
と疵が目につく事になるのである。
實に殘念な事である。
§
川の邊の雪春は消ゆ野邊の墓
この句も、歴史的假名遣だと、
「川(かは)」
「墓(はか)」
となるが、現代假名遣だと、
「川(かわ)」
「墓(はか)」
となつてしまふ。
§
草の名は問ひつ待つ人花の咲く
この句の、
「問ひ」
は歴史的假名遣で、これが現代假名遣だと、
「問い」
となつてしまひ、この儘(まま)だと、
「問い(とい)」
が、
「いと」
となつてしまふ事になり、「廻文」が成立しなくなつてしまふので、
「問ひ(とひ)・人(ひと)」
と圓滿(ゑんまん)に「廻文」とする爲には、矢張、歴史的假名遣で表記するしかなくなつてしまふのである。
§
妻ぞ來つ堤を見つつ月ぞ待つ 不忍
この句は季語から見れば、今の季節には合はないですが、現代假名遣でも、歴史的假名遣でも、字音假名遣でも影響を受ける事なく、さらに濁點(だくてん)の有無も關係なく廻句として出來上がつてゐます。
このやうな事は幾つか作つてゐるのですが、とても珍しことです。
§
比喩のうまかつた、立川談志が死んだ。
彼の落語をそれほど聞いたことがなく、『笑点』での活動以外はどちらかといふと問題兒としての逸話(エピソオド)しか記憶に殘つてゐない。
好みとしては敬遠氣味であつたが、孤高を貫いて成し遂げたといふ感は強い。
極楽湯談志が死んだ逝く落語 不忍
他の人ならば兔も角、彼なればこんな戯言(ざれごと)も許してくれさうだと思つて發表することにした。
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