2019年1月24日木曜日

Hokku poetry "It is white in autumn." 發句集「秋白く」



Hokku poetry "It is white in autumn."
發句集「秋白く」

二〇一二年度の作品


八月七日

   秋立ちて流れる雲や浅黄色 不忍 

今日から季節が變るが、立秋になつたといふだけで氣分も爽やかになつたやうに思はれる。
實(じつ)に安上りなやうだが、そんなものかも知れないといふ氣にもなる。
さういへば自轉車で店に行くのに汗が流れて止まらなかつたのに、けふはそれ程でもなく走つてゐられた。
浅黄色といへばこれに「誠」の文字があれば新撰組である。
近藤勇(1834-1868)も土方歳三(1835-1869)も三十五歳になる前にその生涯を終へてゐる。それに倍するとまでは行かないが、馬齡を重ねたものだと呆れてしまふ。
きつとこのまんまなんだらう。

八月八日

   紫を空に投げかけん桔梗かな 不忍 

始め「紫を空に映して咲く桔梗」から「紫を空に映した桔梗かな」となつて最終稿となつた。くつきりとした花の形状とその色は凛として清々しい。
古名を「あさがほ」と言はれてゐたと辭書(じしよ)にはあつた。
現在の朝顏といつの間に入替つたのだらう。
季語は秋。


八月九日

   丘の上にどなたが住まふ蔦屋敷 不忍 

始めは下五句を「蔦の家」であつたが、木曜日に時々出かける萬博(ばんぱく)の「お湯ば」へ行く途中に、丘の上に蔦に覆はれた瀟洒な洋風の屋敷があつて、それを下から眺める度にどのやうな人が住んでゐるのか、と空想をしてそこから物語を紡ぎ出してしまふ。


八月十日

   生き急ぐ譯なくてはや蟲の聲 不忍 

中句「譯でもないが」であつたが、どうしても「はや」といふ言葉を使ひたくてかうなつた。
朝五時に仕事を終へるのだがもうライトを點(つ)けないと自轉車で走れなくなつてしまつた。
ついこの間まで蝉が鳴いてゐたと思つたのに、草むらからもう蟲の聲が聞かれる。


八月十一日

   野も山も空行く雲も秋さやぐ 不忍 

秋口とはいへ何處となく夏の氣配は薄まつて、さやさやと野に山に渡つてゆく風が空の雲も気儘な旅へと誘(いざな)ふやうだ。
殘暑といふぐらゐだから時に汗は出たりするのだが、それでも氣分的にはしつとりとした皮膚感覺で過す事が出來てゐる。


八月十二日

   どなたにも便り屆けん殘暑かな 不忍 

誰が誰にといふ譯のものではなく、即ち好き嫌ひを越えてこの世に生れた事を愉しみながら、秋になつてもまだ殘つてゐる暑さを凌いで無事に過されん事を願ひつつお見舞ひをする。
これまで生きて來られて有難うといふところである。
皆樣、殘暑お見舞ひ申し上げます。


八月十三日

   戸口にてまとはり來たる蜻蛉かな 不忍 

玄關の階段を降りた所に幾つかのプランタアで胡瓜や苦瓜を植ゑてゐて、今年もそれなりに収穫が出來た。
まだ葉が殘つてゐるからか玄關に出ると何處からか蜻蛉が一匹だけ現れ、私の周りを飛び廻つて、時にズボンの裾に止まつたりした。
蜻蛉を見たのも久し振りだ。


八月十四日

   窓にまでからみつきたり牽牛花 不忍 

牽牛花(けんぎうくわ)とは朝顏の漢名である。
朝顏は支柱の竹を頼りに枝を伸ばし、竹は家の壁を頼りに立てかけられ、人間はそれで視覺(しかく)と體感(たいかん)で涼を味はふ。
全ては頼ると思はず存在してゐるが、思ひの如何(いかん)に拘らず扶助し合つてゐる。
克魯泡特金(クロポトキン(露)・1842-1921)の『相互扶助論』の書名がふと浮んだ。


八月十五日

   儚くも生殘りたる秋の蝉 不忍 

幼蟲の時は地中で十數年も樹木の根から吸汁して過し、地上に出てからは僅か一週間で命を鳴き盡す。
まるで苦節十年、やつと日の目を見たと思つたら人生の終焉を迎へるやうなものである。
秋になつてもまだ元氣な聲で、或いは時に弱々しく鳴く聲が聞かれる。


八月十六日

   空の海や流れに任す鰯雲 不忍 

鰯雲は卷積雲(絹積雲)の事で上層雲の一種。鰯が大漁の前兆だとか形状が鰯の群れのやうに見えるからとも言はれる。
別に「まだら雲・鯖雲・うろこ雲」ともいふ。
暑さは一向に収まらないが、邉りは次第に秋の氣配を整へ始めてゐる。
青い空の鰯雲を水族館と同じやうに仰ぐやうに眺める。


八月十七日

   混凝土に蝉うずくまる秋の暮 不忍 

自宅は通路の行き止まりにあつて、駐車場に三臺(さんだい)の自轉車を止めてゐる。
店に行くのに自轉車に乘らうとしたら、混凝土(コンクリイト)に木の枝から落ちた蝉が蹲(うずくま)つてゐた。
かすかに動いてはゐるがもう飛び立つ力はなささうで聲もたてなかつた。


八月十八日

   降る雨で灰色の闇に稻光 不忍 

始めは「降る雨が暗闇にして稻光」であつた。
夏に死んだ叔父の滿中陰で二時半頃に親戚の家に出かけようとしたら、先が見えない程の突然の集中豪雨で灰色の闇に閉ざされ、舞臺は整つたとばかりに雷が鳴つて稻妻が走り廻つた。
激しい雨は落雷を伴ひながら一時間も續いた。


八月十九日

   川底に深く落として揚げ花火 不忍 

大雨が降つた十八日の四十九日の法要が終つた歸り、著物(きもの)姿の大勢の人出で鋪道が混雜してゐた。警備の係りに聞くと猪名川の花火大會だといふ。
雨が上がつたのが幸ひしたのだらうが、何十年も昔、十代の半ばに來た記憶がある。
深く心の奧に花火が赤く響く。


八月二十日

   秋空にいくつ浮ぶや雲の島 不忍 

始め「飛行機と雲を泳がす秋の空」と詠んでみたが、餘(あま)りに奇を衒ひ過ぎと思つたので、秋になつて澄み渡る空が高く感ぜられて、幾つもの雲の浮ぶ樣が本當(ほんたう)にポツカリといふ風に點在(てんざい)する景色に、松嶋を見たやうな氣分で素直に詠んでみた。


八月二十一日

   人の世の盡きぬ愁ひも秋晴れて 不忍 

季節が移ろふやうに全て留まる事を許さぬこの世は儘ならず、つらい世の中(憂世)とも果敢無い世の中(浮世・ふせい)ともいふ。
夏から秋へと流れたが、せめて雜念を捨てて空の青さに吸込まれてみる。
「て止まり」にしたのは終止感を薄める爲といふ言ひ譯をしてしまふ。


八月二十二日

   かぶさつた網のうへ飛ぶ稻雀 不忍 

稻穗が實(みの)つてその上を雀が群がつて飛ぶ。
昔ながらの變らぬ光景であるが、その對應(たいおう)は案山子やCDなどの光物をひらひらさせたり、鍋や洗面器などの鳴物を叩いたり、最近見かけるのは一面に網を被せると時代によつて異なつて、鳥との攻防は續く。


八月二十三日

   茹でたての枝豆つるりと麦酒飲む 不忍 

いつも店で輕く麦酒(ビイル)を飲みながら夕食を食べるのだが、食事が濟んでも麦酒が殘る事がある。そんな時にこの時期は枝豆をちよいと抓(つま)んで當(あ)てにする。
店では冷凍物を使はないので短い期間だけの獻立(メニユウ)である。枝豆は秋の季語である。


八月二十四日

   見えねども聲は確かにきりぎりす 不忍 

明方五時に仕事を終へて歸る時、もう薄暗くなつた景色の中を自轉車で走ると生垣や公園の根際(ねき)から蟲の聲が聞えて來る。
蝉の時でもさうだがその姿をみつけるのは難しい。
違つてゐるのは蝉は脱殻も死後の姿も見られるが、きりぎりすは聲ばかりである。


八月二十五日

   網でさへ輝く稻の景色かな 不忍 

いつもの道をいつものやうに夕方の五時過ぎに通ると、田圃一面に覆はれた鳥避(とりよ)け網が夕陽に輝いてゐる光景に出くはした。勿論、稻だつて同じやうに光を受けてゐるのだが、「七光」は稻なのか網なのか、それとも相乘効果なのかとどつちでもいい事を考へてしまふ。


八月二十六日

   唐なすの煮つけほつこり朝餉かな 不忍 

「唐なす」とは南瓜(かぼちや)の事であるが、出來立ての熱々を美味しくいただいた。
けれどもこれを多めに作つて夕方の御前に出す爲に冷蔵庫に冷やしてから食べるのも、殘暑の時期にはまた格別なもので、炊き立てのご飯と一緒に食べられれば何の文句があらう。
餘談だが、「唐なす」は狹義には西洋南瓜が渡來以前に栽培されてゐた瓢簟(へうたん)形の南瓜の事をいふと辭書(じしよ)にある。


八月二十七日

   さすらひのいづこも菩提樹待つ街路 不忍 

YouTubeにシユウベルトの「菩提樹」をアツプするのに映像を求めて、二十六日の晝(ひる)から神戸の布引ハアブ園に行つて來た。その樹は欧羅巴(ヨオロツパ)の多くの都市で街路樹として用ゐられてゐるので、旅行者は何處へ行つても迎へられたやうな氣になる。
『菩提樹』で歌われてゐる樹はセイヨウボダイジユ(セイヨウシナノキ)の事で、ナツボダイジユとフユボダイジユとの交雜種といはれ、釋迦が悟りを開いたとされるインド原産のクハ科イチジク屬のインドボダイジユ( Ficus religiosa)や中国原産のシナノキ科シナノキ屬のボダイジユ(Tilia miqueliana)とは別種との事。


八月二十八日

   透明な冬瓜さらり舌の上 不忍 

お隣からは丁稚羊羹(やうかん)やら柿、辣韮(らつきよ)とか時には百合の花と色々な四季のものを頂戴してゐるのだが、先日、楕円形の立派な冬瓜を戴いた。
片栗でとろりと餡かけにすると大根よりもしつとりとした透明感が涼味を誘ふ。
この料理法を翡翠煮といふさうだが、如何にもといふ感じがする。
別に「氈瓜(かもうり)」ともいはれる冬瓜(とうがん)は、亞細亞の熱帶及び温帶で古くから野菜として栽培されてゐたといふ。
皮を薄く切つて緑を殘して煮る料理を『翡翠煮』といふのださうであるが、なんて詩的な食べものなのだらうか。素敵!


八月二十九日

   冀ふ望みたとへば猿の酒 不忍 

猿酒(さるざけ)とは、猿が樹木の穴や岩の窪みなどに貯めておいた果實が自然醗酵して酒のやうになつたものだと辭書(じしよ)にあるが、さうだとすればどんな味がするのか試飲してみたいものである。
これこそ將(まさ)に『幻の酒』だらう。
「冀(こひねがふ)」と讀んで下さい。
當初(たうしよ)は「求め得ぬ願ひやたとへば猿の酒」であつたが、う~んと唸つて「冀求(ききう)する望みたとへば猿の酒」となり、最終案がこれである。
人は幸せになりたいと願ふがそれは猿酒を求めるやうなもので、適はぬ望みに渇きを癒す術(すべ)は欲望から解放されるしかない。
平安なれ!


八月三十日

   願ひ事を求められたり流れ星 不忍 

流れ星は「奔星(ほんせい)・流星(りうせい)・奔(はし)り星・婚星」ともいはれ、夜間の地上百粁(キロ)程の高さで高温で光を放つ。
それを見て願ひを言つたりするが流れ星には與(あづか)り知らぬ事で、せめて大氣に消えゆく儚い姿を愛でるを以て善しとしよう。
「婚星」は「夜這星」と同じでどちらも「よばいぼし」と讀み、色つぽい呼び名である。


八月三十一日

   通り雨過ぎて雲間の月清か 不忍 

夕方に驟雨が降つた。奈良に大雨洪水警報があつてから一時間程してからの事である。
中國で大使の車が襲撃を受けた問題や比律賓(フイリピン)諸島沿岸で震度7以上の地震があつたりしたが、空の月は何事もなく清かな姿を雲の間から出して悠然としてゐる。


九月一日

   大雨のあとさへ見せぬ秋の雲 不忍 

一天俄かに掻き曇るとはかういふ事なのかといふ風に、突然に目の前さへ見えなくなる程の大雨が雷を伴つて降つて來た。
傘など役に立ちさうもないといふ非道(ひど)い降りやうで出かけようと思つたが足止めを喰つてしまつた。
暫くするそんな事があつたのかといふやうにからりと晴れた。


九月二日

   これからは嚴しい季節風の盆 不忍 

一度は行つてみたいと思つてゐた富山市八尾町の「おはら風の盆」が、九月一日から始まつたと新聞で見た。
森昌子の『先生』によく似たフレエズのある、この行事を石川さゆりが歌つてゐた記憶がある。
秋の豐作を願つて三百年も續いた行事だといふ。
確かこの地を舞臺にした不倫ものの小説があつたやうに思ふ。
盆踊りは結構賑やかな感じがあるが、盆踊りといふぐらゐだから盂蘭盆に關係があり、淋しさも漂つてゐたりする。
けれども「風の盆」ほど悲しみをたたへたものは滅多におめにかかれない。
これが終ると一氣に嚴しい冬の氣配が忍び寄つて來る。


九月三日

   無花果の咲く花見せず果實かな 不忍 

別に『映日果』とも表記する「いちじく」は、桑(クハ)科の落葉小喬木で小亞細亞原産。
枝葉を切ると白色の乳液が出、春から夏にかけて葉腋に壺状の花序をつけ、中に無數の白色小花をつけるが外からは見えないので『無花果』と書かれたといふ。
始めは「無花果の咲く花見せぬ床しさよ」と詠んだが、「床し」とは餘(あま)りに筆の走り過ぎと思つたので改めた。また辭書(じしよ)には『唐柿』ともあつたが、それは同じ書物には書かれてゐなかつたので、確認は出來なかつた。


九月四日

   やはらかく口に含まん秋の茄子 不忍 

始めは「煮て炊いて漬物にする秋の茄子」と詠んだがそのまんまなのでかうなつた。
食膳に揚げと茄子を柔らかく煮た一品を添へて、麦酒を飲みながら夕食をいただく。
口に含むと歯莖にまで沁みるやうに秋が廣がつて行く。
食べる喜びは生きる喜び。


九月五日

   葛鬘魔術の果の和菓子かな 不忍 

日本で獨特な発展をして來た透明感のある涼しげな葛を使つた樣々な和菓子は見事な藝術品である。
葛蔓(くずかづら)ともいふ葛は秋の七草の一つで、その根を粉にするといふ發想に驚嘆する。
葛蔓は手繰る意から「來る」にかかる枕詞(まくらことば)となつてゐる。


九月六日

   蟷螂の穗に隱れてや斧折れて 不忍 

蟷螂(かまきり)は「たうらう」とも讀み、前脚をあげて大きな車に向つて行く「蟷螂の斧」といふ故事が莊子にある。
その蟷螂のやうに自分の弱さは解つてはゐるが、適はなくともささやかな抵抗をする。
いつかは死ぬと解つてゐる人生を生きて行くやうに……。


九月七日

   秋郊は際立つ池の青さかな 不忍 

秋郊とは秋の郊外の事で秋の野原などをいふが、高いビルに圍まれた都會から少し離れただけで、山や池に映る空の青さや雲の變容の樣をぼんやりと眺めてゐるだけで秋の氣分を味はへるやうに思へるばかりでなく、自身も自然の一部である事を實感(じつかん)する。


九月八日

   ひりひりと大根おろしに秋刀魚かな 不忍 

始めは「七輪を購ふて燒く秋刀魚かな」であつたが何もそこまでしなくともと思ひ、かうなつた。
秋刀魚(さんま)と言へば佐藤春夫(1892-1964)の詩が有名で蜜柑の汁をかけて食すといふが、この時期ならば酢橘といふのを忘れる譯にはいかないだらう。


九月九日

   三日月を上に置いたる武家屋敷 不忍 

雨が降りさうな曇り空だつたのに夜中に戸外に出ると綺麗な三日月が空にかかつてゐた。
服部の天竺川の側に今西邸の屋敷が殘つてゐる。その上にぽつかりと置かれたやうに月がある。
やがて時が月を闇に隱したりぼんやりと幽(かす)かに移ろはしてゐる。
今西氏の屋敷は嚴密には武家屋敷ではなく、春日大社の南郷目代すなはち垂水西牧榎坂郷を管理する爲に奈良春日社から來往した莊官の事で、社家である今西氏の屋敷であるが、元は有力な貴族であつた藤原氏の荘園で、それが十二世紀末に奈良春日社に寄進されたとあり、神社といふ風はない。


九月十日

   日も暮れて自宅ではまだ秋扇 不忍 

偶々(たまたま)用事があつて家に歸つたが、風は漸く涼しさを傳へるやうになつても、まだ室内は日中の熱を殘した儘なので、秋なのに扇(あふぎ)を必要とする。
芭蕉(ばせう・1644-1694)は發句を「夏爐冬扇(かろとうせん)」と言つたが、仲秋までの扇はさうではない。


九月十一日

   共生をせめて願ふや威し銃 不忍 

妻の田舎で稻刈りの時期が近づいて來た。
例年はその爲(ため)に歸郷してゐたが、今年は新しい店を開業するので實家へは歸れない。
田舎では鳥は勿論、鹿や猪に田圃を荒らされて困つてゐるが、罠で殺害するよりも電流の通つた電電や空砲で追拂つた方が罪は輕いのでは……。
よく考へれば似たやうな事を書いてゐるものである。

柿衞文庫を訪ねて 『殘し柿』
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映畫『沈まぬ太陽』を見て
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映畫『ライフ』を觀て
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九月十二日

   鋪裝されて休む場所なき蜻蛉かな 不忍 

長男に子供が生れてその孫の宮詣りの爲に駐車場へ車を取りに行つたら、珍しく蜻蛉(とんぼ)が一匹足元に飛んで來た。
土瀝青(アスフアルト)で鋪裝(ほさう)された道路の何處に休まうかと飛廻つてゐるのを見て、彼等の休息の場所が殘つてゐる事をせめて願ふ。


九月十三日

   街角で振舞はれたる新酒かな 不忍 

店に行途中で利き酒のやうに新酒を振舞はれた。
さつぱりとした若々しい味に納得はしたが買ふのは躊躇(ためら)つてしまつた。
飲んだ手前そのまま手ぶらで歸る譯にも行かないので、古酒を購(あがな)ふ事にした。
古酒とは前年度以前に造つた酒の事である。
新酒とは當然(たうぜん)その年に取れた米で造つた酒の事で、「今年酒(ことしざけ)」とも「新走(あらばし)り」ともいふと辭書にあつたが、別に電網(インタアネツト)では「舊(きう)暦八月(新暦では七月頃)に前年に収穫した古米で造る」ともあつた。


九月十四日

   土砂降りに手持ち無沙汰の秋日傘 不忍 

明日が開店なので細々としたものが足りなくて晝(ひる)の二時過ぎに買物に出かけた。
表へ出たら邉(あた)りを暗くする程の物凄い雨で、剩(あまつさ)へ雷まで鳴つてゐた。
客が入口で雨宿りをしてゐたが、ここにくるまでは晴れてゐたので日傘の婦人が多かつた。
始め「土砂降りに手持ち無沙汰の日傘かな」だつたが、『日傘』が夏の季語なのでかうなつた。
句切れは「手持ち無沙汰の秋」になり「秋日傘」ではない。
詠むのは「土砂降りに・手持ち無沙汰の・秋日傘」と讀んで、拍子(リズム)だと

    土砂降りに   手持ち無沙汰の  秋 日 傘
   C♪♪♪♪†ζ|γ♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪†ζ|

となる。
「♪(八分音符)」以外の音符記號がないので、「†(四分音符)・ζ(四分休符)・γ(八分休符)」で代用した。


九月十五日

   日の當る我が身は影を落す秋 不忍 

二日續けて同じやうな時間帶に雨が降つて暗かつた。
それも同じ場所で……。その前の空は太陽が美しい雲を從へ、風で汗を抑へられてゐるものの、晴れやかに短い私の影を地面にへばりつかせてゐた。
次第に「千々にものこそ悲し」い秋が忍び寄つてゐる。


九月十六日

   風吹くや驟雨でさへも秋の聲 不忍 

雨は一陣の風と共にやつて來る。このところ三日も續けて激しい雨が降つてゐる。
スコオル(squall)と書けば夏で時雨と書けば冬になる。
まだ殘つてゐる夏の暑さの中に、雲の流れや側溝に流れる水の音、肌に觸れる風なんかに何處となく秋を意識する。


九月十七日

   響く音の空に消え行く落し水 不忍 

都會とは云へ表通りを外れると、田圃が廣がつて街の喧騷も聞えない田園風景が忽然と現れる。
聳(そび)え立つ送電線の鐡塔(てつたふ)を仰ぎながら、稻を刈る前に田を干す爲に水を流し出すチロチロとした音が空に吸ひ込まれて行くのを聞いて秋を實感する。


九月十八日

   秋の燈やいつも通りに出た街が 不忍 

新しい店を始めたので、そこへ行くのは晝(ひる)過ぎに家を出るのだが、前からの店へはそこで仕事を手傳つた後で、私が一人でいつも通りにその新しい店から出向いて行く。
いつもながらの行動が、嘗ては明るかつた街が燈を裝つて私の眼の前に出現してゐる。


九月十九日

   衣服干して買物へ飛ぶ秋日和 不忍 

けふは朝から空は雲ひとつなく晴れてゐたので、九時頃に朝食を濟ませると、妻は洗濯物を干して、その足で買物へ出かけて店へ直行した。
私は晝(ひる)の二時過ぎに店へ出向いたが、肌に觸れる風がしつとりとさはやかな秋日和であつた。


九月二十日

   草摘みを謝りながら墓參り 不忍 

晝(ひる)から墓參りに出かけた。最低月に一度は行くのだが、草が結構生繁つてゐたので、妻と一緒に草むしりをした。
墓の周りは綺麗になつたものの、よく考へれば人間が栽培する作物や草花以外の草を雜草と呼んで摘み取るなんて都合のいい話である。


九月二十一日

   吹き渡る稻田の風も黄金かな 不忍 

冒険家(トレジヤアハンタア)が財寶を發掘するやうに、商人が物を賣つて金錢を得るやうに、農家は一年を費やして稻穗を黄金にして糧とするが、苦勞の割には彼等の年収は多くはない。
けれどもその稔りは精神に輝きを與(あた)へてゐるに違ひない。


九月二十二日

   有りの實やぱきつと液果口に食む 不忍 

鯣(するめ)を「當(あた)りめ」と言ひ、「死ぬ」を「直る」言ふやうに、「有りの實(み)」とは忌み詞(ことば)で梨が「無し」に通じるのを嫌つて對義語の「有り」を用ゐたものだが、その食感のざらざらしてパキツとする口當りと、その後に廣がる多汁感は林檎よりも好物である。
單に理窟を竝べて自分の好きな果物を披露しただけの句であつた。
「食(は)む」と讀んで下さい。


九月二十三日

   生きにくいこの世や籠る毬の栗 不忍 

連日の報道で學校の虐めが取上げられてゐる。人は自分が下位にゐると優位にならうと相手を下に見て安心しようとする。
さうしなければ心を平靜に保てない人には、そこから抜け出す教育課程(カリキユラム)で精神力を鍛へ直さなければならないだらう。
しかし、下位にゐると思はされて虐められた被害者側は、救ひの手が差伸べられなければ、その後の生きる手段として殻に籠る外はなく、一端そこに閉籠つてしまふと、容易にその殻が開かれる事はない。
毬栗が自然に割れるやうに、閉籠つた本人の意志によつて開けられるまで待つしかないが、それには強靭な精神力が必要である。
この句は人事を扱つてゐるので、寧ろ川柳に近い句と言へようか。

キップ(さんのコメント)
いじめる人の心のケア問題ですね。お釈迦様とか、キリストさんは考え抜いてくださったようですが、いじめる方は本もよみませんし、あんまり反省もしませんし、どうしたら良いんでしょうね。

キップ(さんへの返事)
學校で「虐めプログラム」を作つて實踐させればどうでせう。
それは劇にして一人ひとりが虐め役、虐められ役、傍觀者役、助ける役、助けたばかりに虐められた役を演じるのです。
さうする事でそれぞれの氣持が理解出來れば、今よりはよくなると思はれます。
人は人の痛みは解りません。
ならば自分の痛みとして實感してしまへば、問題はずうつと解決に近づくと思はれ、それも學校の授業としてそれをすれば、個人が本好きになるまで待つ必要はないのではないでせうか。


九月二十四日

   ねこじやらし共に遊んだ猫の墓 不忍 

長女が店の前で車に轢かれさうになつてゐる子猫を見つけて、思はず抱き上げてしまつたからさあ大變。
もう手放す事が出來ずに飼ふ事となつて、模様が「瓜坊(猪の子)」に似てゐるので『うり』と名づけたのが、今から十五年前――今はもうゐない。


九月二十五日

   墓に咲く名を捨子花とも言はれけり 不忍 

親が先に死ぬのは當り前でつらい事に變りはないが、子が親よりも先に死ぬほど見てゐて辛いものはない。
けれどもよく考へれば、順當に親が先に死ぬといふ事は、獅子が谷底へ子供を落すやうに一人立ちさせる爲とは云へ、子供を捨てたといふ格好にはなつてゐる。
捨子花とは「彼岸花」の事で、別に「死人花・曼珠沙華」ともいふ。


九月二十六日

   ひややかな堤に立てば街暮色 不忍 

始め「ひややかな堤に立てば街暮れぬ」だつた。
我が家は高川と天竺川の間にあつて、災害が起これば水沒してしまふやうな擂鉢の中にある。
今は高川河川の工事をしてゐるが、この川は一部ではあるが道路の上を橋にして流れてゐる非常に珍しい川である。
少し前までは雨が續くと水が溢れ、颱風でも來やうものなら床下浸水は覺悟しなければならなかつた地域であるが、治水が完備されて今はさういふ事はなくなつた。
今度の店はその間の豐南町にある。
そこから庄内驛の向うに以前からある店へ行く途中の天竺川から、眼下の街の秋の夕暮の景色を眺める。


九月二十七日

   身を處するさやけき月を糧として 不忍 

數年前に癌が發症して何とか手術で命を長らへる事が出來た。
とはいへ元氣になると現金なもので賭博(ギヤンブル)はしないが、酒と女性には目がない。
月に一度は藥を取りに、三個月に一囘は細胞檢診に病院に行かなければならないのに、困つたものである。
これで月を見た時ぐらゐは己が身の煩惱の深さに反省をしてしまふ。
それほど今日の月はわが生き樣が恥かしくなるやうな綺麗な月だつた。
あと何年生きられるのかは解らないが、生きてゐる間も死んでしまつてからでも、こんな月が人を慰めて行くのだらうなと考へながら觀賞してしまふ。


九月二十八日

   便りなきとて心折らすな秋の風 不忍 

新聞に看病疲れで妻が良人を殺害して、その裁判に温情判決が下されたとあつた。
人が人の世話をするといふのは保育園から學校の教師、病院の醫師や看護師に到るまでの技術を身につけた人でさへ大變な事で、況して家族間での介護は想像を超えるものがあるのだらう。
蒼鳥女史へ贈る。
さうして多くの境遇の方に祈りを込めて。


九月二十九日

   人の世のさきはひ問はん秋の風 不忍 

萬葉集(まんえふしふ)に「やまとは言靈(ことだま)のさきはふ國と語り繼ぎ」とある。
「さきはふ」とは「幸ふ」と書き、幸運に巡り合ふ、豐かに榮えるといふ意味である。
これから嚴しい冬の寒さを教へるやうな秋の風に、思はず誰にともなく溜息交りに呟く。
いい事はないかと……。


九月三十日

   人の定めも搖れて離るる野分かな 不忍 

颱風十七號が日本列島を從斷してゐる。
崖が崩れ、橋が壊され、建物が倒潰して人々が分斷される。
こんな時こそ助け合はねばならないのだが、打續く災害は以前に受けた傷跡の上に容赦なく傷をかぶせて人々の心を折らうとする。
心が離ればなれにならないやうにと願ふばかり。


十月一日

  
  名月や景色異なる池明り 不忍 

今日は綺麗な滿月でいつもは街の明りで見える景色と違ふやうに思ふのは、仲秋の名月だと感ずるからか。
「月見る月はこの月の月」と詠まれ、「千々にものこそ悲し」と古人に言はれたほどであるから、成程と納得せざるを得ない。
ただ殘念なのは、時々雲に隱れたりする事である。


十月二日

   人の世の愁ひを越えて天高し 不忍 

生きて行く事は樣々な悲しみに遭遇する事であるといへまいか。
けれども人々の愁ひを集めても、秋の高く澄んだ天空から眺めれば實(じつ)にチツポケな惱みである事か。
その愁ひあればこそ喜びも味はふ事が出來るのであるが、だからといつて喜びだけが大きいといふ譯のものではない。
同時にそれもチツポケなものである。
だからといつて喜びだけが大きいといふ譯のものではない。


十月三日

   鯨波の聲通りすがれば運動會 不忍 

子供が四人ゐるが全員成人してしまつてゐるし、地域でなにがしかの役員をしてゐる譯でもないから、學校での行事には何十年と縁がなかつた。店のチラシを印刷しに出かける途中で子供達の鯨波(とき)の聲(こゑ)がするので何かと歩を進めると小學校が見えて運動會をしてゐた。
午後の陽射しを浴びて、子供達の聲が吸ひ込まれでもするやうな高く澄んだ秋空のもと、高川小學校の前の道路から運動會を眺めながら、先生や親に見守られて気兼ねなく立ち振舞ふ無邪氣な子供達の競技も酣(たけなは)となつてゐる樣を見てゐると、一寸嬉しくなつてしまつた。


十月四日

   洗ひたてのしづく光りし葡萄かな 不忍 

昨日は休日で久し振りに映畫(えいぐわ)を觀に行つた後、家で食事をしたのだが、その時一緒に食卓の上にまるで靜物畫でも描くかのやうに葡萄(ぶだう)が皿に盛られてゐた。
水切りはしたのだらうが、洗ひたてなので一粒一粒が電燈の下で光つてゐた。


十月五日

   滴つてつるりと含む荔枝かな 不忍 

嘘か本當か知らないが、楊貴妃(719-756)が好んで食したとかいはれてゐる荔枝(レイチ)はライチともいふが、中國南部の原産で果實は球形。果皮は薄くて中にある種子の周りの假種皮は白色半透明で甘みと酸味が程良い香氣を感じさせ、檬果(マンゴオ)と共に果物の女王の名に恥ぢない。


十月六日

   降る雨に見えぬもの見る寢待月 不忍 

夕方まではなんとか持つてゐた空が、「味幸」の店から「かしこ」の店に行かうと自轉車で走つてゐる途中から、微かに顏に當るもののあるのに氣がついた。
雨である。
――雨はそのまま降り續けた。これでは月は見えない。
今日は陰暦の八月二十日で「寢待月」である。
因みに、陰暦の八月十五日(二〇一二年の今年は九月三十日)は色々な名稱があるが「名月」と言ひ、次の日が「十六夜(いざよひ)」で、十七日を「立待月」、十八日を「居待月」、十九日を「臥待月」、「更待月」が二十日で、二十日以降を「寢待月」といふ。
今年は十五日が「無月」で二十日は雨である。
とは書いたものの、夜中の十二時を廻つた頃に雨は上がつてしまつた。なんだかこんな表現は天氣になつた事をがつかりしてゐるやうで、普通ではないやうに思はれさうだ。確かに雨は好きだが、月にも愛著があるので難しいところであるが、雨が止んでも月はつひに出なかつた。


十月七日

   幸戀ふる心に沁みて地蟲鳴く 不忍 

「地蟲鳴く」とは地中からジツ、ジツと聞える蟲の鳴く聲の事で、螻蛄(けら)であらうといはれてゐる。
けれども單なる耳鳴りではないかといふ氣がしないでもない。
人はどうしても「幸あれ」と願はずにはゐられない動物なのかも知れない。
鳴きもしない耳鳴りが聞えるやうに……。


十月八日

   神鹿の角切りすんで空に驅け 不忍 

「角を矯(た)めて牛を殺す」といふが、「鹿の角切り」は雄(オス)が他の鹿や人を角で傷つけないやうに、ともに活かす爲(ため)に考へられたもので、なんと江戸時代から續く傳統行事だといふ。
「角切り」から解き放たれた鹿は澄んだ空へ飛ぶやうに走つて消えて行く。
「神鹿(しんろく)」と讀んで下さい。


十月九日

   半袖と素足の夜のうそ寒さ 不忍 

始め「朝に寢て夜の仕事のうそ寒さ」だつた。
日中は半袖と素足の格好で自轉車に乘つて走つてゐても少しも氣にならないが、日が翳(かげ)ると忽ち冷氣が襲つてくる。
明方に歸る時には上著がないと寒く感ぜられる。單に馬齢を加へただけではないと強がつてみせる。(誰に?)


十月十日

   池の面の日に搖らめきぬ尾花かな 不忍 

仕入れからの歸りに車で新御堂を移動する途中、南千里の處に公園があつて、そこに大きな池の中に噴水がある。いつも氣になつてゐたのだが、妻と一緒だと遠慮して寄れなかつたが、一人になつたのでぼんやりとベンチでしばらく過してゐた。


十月十一日

   道の邊のコスモス搖れてきらめけり 不忍 

妻の田舎へ歸つて來て、墓參りの途中にコスモスが咲いてゐた。
兵庫懸を過ぎて岡山に入ると、國道には俄然コスモスが目に附くやうになるが、妻に言はせれば「國體(こくたい)の時に植ゑられた」との事である。


十月十二日

   燈の消えたビルに落ち行く流れ星 不忍 

田舎の夜は空に小さな穴が幾つも開いてゐるのではないかと思ふほど星が綺麗だが、都會ではその輝きはネオンの星に負けてしまつて、夜空を眺めるゆとりさへ失つてしまつてゐる。
流れ星は別に「奔り星・流星・奔星」ともいふが「夜這星」といふ色つぽいものもある。


十月十三日

   珍しや掛稻のある景色かな 不忍 

テレビ大阪の「土曜スペシヤル」で「芭蕉(ばせう・1644-1694)も歩いた棚田の絶景&十割そば」といふ國道歩き旅が放映された。
香坂みゆきと早見優の二人が暗峠(くらがりたうげ)を拔けて棚田のある田園風景とそこに住む人々と觸れ合ひ、何と稻架(はさ)に稻がかけられてあつた。
昔は、といつても十年程前までは妻の實家でも稻架を作つて稻をかけるといふ大變な作業を手傳はされものだが、今では高價な康拜因(コンバイン)を購入したのでその勞も免れられた。
けれども、それに見合ふ収入とはお世辭にもいへないばかりか、綯(な)つてゐた縄の技術も死んだ御爺ちやんと共に失つてしまつた。
誰からも問ひがないが、この句は本來禁じられてゐる「や」と「かな」の切字がふたつもある。勿論、これに就いては今直ぐ述べずに、『切字論』で述べる事になるのだが、それにしてもである……。


十月十四日

   思ひやりを神輿に乘せる秋祭り 不忍 

昨日、今日と新裝開店した『味幸』のある豐南町では秋祭りの行事で賑はつた。
許可を得て二日間を撮影に同行したが、夜は大人ばかりの巡行でも、日中は大人に混つて地域の子供達が神輿につけた縄を引張り、稚(いとけな)い歡聲をあげて、共同體としての意義を感じた。


十月十五日

   さはさはと水澄む川に雲泳ぐ 不忍 

日中も過し易くなつたが、朝晩は寒ささへ痛感して、今まで開けてゐた店の戸を閉めなければいけなくなつた。
わけても晝間(ひるま)の氣持良さは拔群で、自轉車に乘つてゐても汗ばむ事もなく、大氣はしんとしてゐて、川の水も他の季節よりかは澄んで見える。


十月十六日

   赤き色に隱された白りんごかな 不忍 

林檎よりも梨の方が好きだと思つてゐるが、別に林檎が嫌ひといふ譯ではない。
梨がコキツとした歯ごたへなのに比べて、林檎は雪のやうにサクツと齒を實(み)の中に入れてから折れる感じがする。
さういへば赤い皮を剥いた白い實を皿に盛つても直ぐに變色する所も雪に似てゐる。


十月十七日

   宮入りの神輿兒の無事願ふ秋 不忍 

本來(ほんらい)秋祭りは収穫を感謝し、新穀を神に供へて行ふ祭の事であるが、都會で農業に從事する人も少ないので、町内の親睦や子供がこの地域ですくすくと育つて欲しいと願ふ行事の感があるが、宮入りの神輿に兒の無事を願ふのは自然な在り方であらうと思はれる。


十月十八日

   アボカドやニヨロリと箸を滑らせて 不忍 

アボカド(Avocado)は中米原産で黒緑色の楕圓形をしてゐて中に大きな種子が一つ。果肉は黄緑色の乾酪(チイズ)のやうな食感である。
「アボガド」は正しくないさうだ。表皮が鰐の背中の皮に似てゐるので鰐梨といふ和名がある。
フオオクで試したが矢張ニヨロリと落ちた。


十月十九日

   追ひかける道を外れて夕月夜 不忍 

六時前だといふのにもう真暗な夕方に店へ行かうと表へ出ると、まるで空に「私はここにゐるよ」と言はんばかりに綺麗な三日月がかかつてゐた。
坂道を登つて天竺川の堤防を走りながら、川と言はず、家と言はず、橋がなからうが路地がなからうが追ひかけたくなつてしまふ。


十月二十日

   秋鯖に鮨飯詰めて酒の宴 不忍 
嫁に喰はさないものに秋茄子があるが、秋鯖もさう言はれてゐるやうだ。
妻の田舎の美作では秋祭りの頃になると鯖鮨を振舞ふ風習があつたやうだ。
やうだといふのは村の過疎化で男手がなくなつてしまつたので、秋祭りの神輿も隨分前からなくなつた。
せめて親戚が集まつて宴會!


十月二十一日

   雁がねの行方果てなき暗き森 不忍 

始めは「雁がねの行方に見ゆる暗き森」であつた。
渡り鳥の雁は飛ぶ時にV字形に編隊を組み、美味として食用にもされた。
匈奴の虜囚となつた蘇武が雁の脚に手紙をつけて漢帝に便りした故事から、手紙の事を「雁書」といふが、切手ににまでなつたその雁を見る事はなくなつた。


十月二十二日

   火祭りに夜も隱れん鞍馬かな 不忍 

十月二十二日の京都は三大祭の一つである「時代祭」が市内で行はれるが、一八九五年(明治二十八)に始まつたといふから比較的新しい祭礼である。
それと同じうして鞍馬寺では大きな篝火を焚き、松明を持つた中を二基の神輿が出る。夜空を焦がすといふ明るさに顏を火照らす。
一日一句といふ事で始めた發句の發表も、去年の夏の初めに蒼鳥女史の誘ひ水を受けて二囘目の秋を迎へる事となつたが、毎日一句といふのは時に題材を見つけるのに苦勞する事があるが、そんな時筆者は歳時記の中から探したりする。
行きもしない土地の句を詠むのだから、差詰め安樂椅子俳諧師といふところか。


十月二十三日

   降り出して樹に宿りする茸狩り 不忍 

この句は「降り出した雨樹に宿る茸狩り」から「降り出して雨宿りする茸狩り」へと推敲されて決著に到つた。
昨夜から降り出した雨が晝(ひる)過ぎには止んで、それでもどんよりとした曇り空でこんな日に茸狩りにでも出かけたら、茸と同じに樹にへばりつくしかなささうである。


十月二十四日

   口の端に上る噂や金の風 不忍 

始めは「浮世ゆゑとてもかくても金の風」と詠んでみて、次に「誰となく世の口の端に金の風」と詠んで最終案となつた。
「金風」とは五行説で秋は金に當るから秋の風の事をさういふと辭書にあるが、別に「商風」ともいふとあり、『「商」は秋の意』とあるが「あきなひ」だからか。
調べて見ると、中國古代の湯王(たうわう)が夏(か)の傑王(けつわう)を滅ぼして商といふ王朝を建てた。
「酒池肉林」で名高い王朝最後の王である紂王の時に周の武王に滅ぼされた。周人は彼らを「殷(いん)」と呼び、「殷商」ともいふが、この「夏」の後だから「商」を「秋」の事と言つたといふのは穿ち過ぎか。


十月二十五日

   煌きは陽だまりにある金木犀 不忍 

萬博外周にある「おゆば」といふ所へ家族で風呂に行かうと駐車場へ向ふ途中に金木犀が咲いてゐるのを見ました。
氣持の良い陽光の中、邉りに香りを漂はせてゐるのを見て、あんなふうに生きられればと……。


十月二十六日

   甘酸つぱい悲戀ざつくり柘榴かな 不忍 

この句は熟すと裂けて種子を現す「柘榴」といふ甘酸つぱい實(み)と、實らぬ戀に心が裂かれた「ざつくり」といふ副詞との『取合せ』だけで成立してゐる句である。


十月二十七日

   秋風の住處や夕陽の沈むとこ 不忍 

晩秋の景色の中で風に震へるやうに夕陽が沈んで行く。
その沈む邉りに風の住處(すみか)があるのではなからうかと不圖(ふと)思つてしまふ。
下五句の「沈むとこ」の「とこ」は「ところ」といふ言葉を略したもので俗語的な表現である。
芭蕉(ばせう・1644-1694)は俗語を正したといふが、筆者にそんな大それた思ひはなく、語調を整える爲(ため)にさうしただけの事である。
中句は八文字になつてしまつたが、曰く、

   秋  風 の   住 處や 夕 陽の  沈 むとこ 
  C♪♪♪♪†ζ|♪♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪†ζ|

となる。


十月二十八日

   作違ひに喰ひそこねたる鄙の柿 不忍 

「不作にて喰ひそこねたる在所柿」が初案であつたが、先日妻の實家へ歸つた時、昨年は撓(たわ)わに實(みの)つたのに今年は収穫が見込めないといふ。
妻の祖母に聞けば、柿は毎年結實する事はなく、去年豊作だつたら今年は凶作といふ風に一年置きになるさうである。
日々生きてゐる事を實感する一つに、旬のものを食べるといふ行爲(かうゐ)があるやうに思はれる。
それは櫻や紅葉を見るのと同じやうに、その年に確かに生きた證(あかし)として、例へば去年は妻の田舎の柿を山と持ち歸つて食べた。
店の客にも振舞つたが、今年は出來さうにない。
來年はどうだらうか。
「作違(さくちが)ひ」とは農作物の出來ばえが予想に反して惡い事で、「鄙(ひな)」は都から離れた土地、即ち田舎の事である。
時の鐘数えて見仰ぐ木守柿 蒼鳥 ケンタウロスさんの句からイメージをいただいて詠んでみました。以前に教えていただいた「残し柿」のことを「木守柿」とも呼ぶそうです。実の成りにもおもて年、うら年が有るようですが、来年はおもてですよ、きっと!


十月二十九日

   光輪を放つ月あり自燈明 不忍 

今日は陰暦の九月十五日で十五夜である。
二日前の十三夜は「後の月」で、八月の十五夜の「名月」と九月の十三夜のいづれか一方だけ月見をすると「片月見」といつて忌むべき事とされる。
「自燈明」とは心の弱さを誰かに頼るのではなく、自らの明りで照らすといふ意味である。


十月三十日

   紅葉もまだかすかなり枝の先 不忍 

今年は温暖化で紅葉が遲れてゐるやうに感ぜられるが、さう言へば去年も有馬温泉での紅葉はなり切れぬままに季節を終へてしまつた。
何だかその年が志半ばで夭折してしまつたやうで、その季節を滿喫できなかつた憾(うら)みが殘る。
この秋はどうなるのだらうか。


十月三十一日

   小牡鹿のなく聲ひびく山の奧 不忍 

小牡鹿は「さをしか」と詠み、「小(さ)」は接頭語で猿丸大夫の
   奧山に紅葉ふみわけなく鹿の
   こゑきくときぞ秋はかなしき
を面影として作つてみたが、本來「小牡鹿の」は「入野(いりの)」にかかる枕詞である。
ここでは妻問ひとか戀ふる人に鳴く聲を心象(イメエヂ)とした。


十一月一日

   新松子やがては土の糧となる 不忍 

新松子とは「しんちぢり」と讀み、その年に出來た松毬(まつかさ)の事である。
別に「まつぼつくり・まつふぐり」ともいふが、南千里駅前の公園の池の周邊に松葉林があつて、それの轉がつてゐるのをみたが、自分も軈(やが)ては地球の養分となつて行くのだとふと思つた。


十一月二日

   温もりを手に殘してやきぬかつぎ 不忍 

「きぬかつぎ」とは里芋の小芋を皮のまま茹でたり蒸したりしたもので、温かいうちに皮を剥(む)いて鹽(しほ)をつけて食す。
我が家では妻の實家から収穫したものを貰ひうけると「煮轉(につころ)がし」にする事が多いが、寒くなると偶(たま)に蒸して食べる事がある。
「衣被」と漢字を當てて「きぬかづき」ともいふが、平安時代以降には身分の高い婦女子が外出の際に顏を隱すのに頭から衣を被つた事、またその衣を指し、多くは小袖を用ゐたといふ。
別に皮を被つてゐるところから、「包莖・かはかぶり」の隱語ともなつてゐると辭書(じしよ)にあつた。
辭書にあるからと言つて、食料であるものの隠語を態々(わざわざ)披瀝(ひれき)しなくてもよささうなもので、配慮に缺(か)けると思はれても仕方がない。どうも私の言動は常識からは外れるやうで、けれども敢(あへ)て言ひ譯をすれば、食慾よりも知識欲の方が勝る傾向があるやうである。


十一月三日

   受勲よりも自由と平和文化の日 不忍 

十一月三日は「文化の日」で、一九四六年の同日に日本憲法公布の日を記念して制定された。
この憲法は世界で初めて戰爭を抛棄し、自由と平和を愛して文化を進める事を宣言した。この趣旨のもとに文化勲章の授與や文化功勞者の表彰を行つてゐる。
この句は發句といふよりも川柳に近いかも知れない。けれども一言いはせてもらへば、文化勲章の授與や文化功勞者の表彰」は「國民榮譽賞」と同じで、政治家が人氣取りの爲に利用してゐるやうな節が見受けられないか。
文化功勞者に年金が與(あた)へられるが、それには所得税が課せられない。
二〇一二年の秋の叙勲の受章者は三九四〇人(うち女性三百二十八人)である。その中には政治家も數人、外國人は四十六人ゐるといふ。
文部科學学大臣が決定して政府が發表するこの制度に、仲間の政治家が叙勲するといふ事を恥かしいとは思はないのだらうか。
或は受けても辭退しようとは考へないのだらうか。
誰かが誰かを褒めるといふのはあつてしかるべきである。
だが、それは褒めるだけでお菓子などの高價なものではないものがプレゼントとして贈られ、褒められるといふ事そのものが勲章に價すると思ふのである。
自分の資金でない税金で誰かを褒めて金品を與へ、それを自身の手柄とするなどさもしくはないか。


十一月四日

   人形を飾る祭や菊日和 不忍 

関西では毎年「枚方パアク」で菊人形展が開催される。
今年は十月六日から十一月二十五日までで、入場料は大人四百圓ださうである。
昔は「あやめ池公園」もあつたのだが、二〇〇四年六月六日に惜しまれつつも閉園になつた。
因みに菊人形は「平清盛と源頼朝」が題材であるといふ。


十一月五日

   金色に黄落したる竝木かな 不忍 

大抵、毎週月曜日は吹田の亥の子谷へ仕入れに行くのだが、その譯は二十年以上も前にそこで十年程店をしてゐて、その近くに氣に入つたお肉屋さんがあので、ずつと附合ひを續けてゐるからである。
桃山臺から南千里へ拔けて行くと街路樹の銀杏が見事に黄葉してゐた。