2012年6月18日月曜日

發句の機能としての『季語』の象徴的な普遍論 Universal theory of the iconic "Season words" as a function of A Hokku poetry


發句の機能としての『季語』の象徴的な普遍論
Universal theory of the iconic "Season words" as a function of A Hokku poetry



 この作品を讀む時に、この音樂を聞きながら鑑賞して下さい。
 これは自作(オリジナル)

Motion(Mirror) (Substance) 曲 高秋 美樹彦』

 といふ曲で、YAMAHAの「QY100」で作りました。

映像は伊丹にある、

『柿衞文庫』

へ出かけた時のものです。

 雰圍氣を味はつて戴ければ幸ひですが、ない方が良いといふ讀者は聞かなくても構ひませんので、ご自由にどうぞ。







六、「季重なり」について


今囘は「季重なり」について述べるのだが、「季重なり」とは發句の一句中に季語が二つ以上ある事を指す。
さうして、それには幾つかの事が考へられる。
 一つは同じ季節の言葉が二つ以上詠まれた場合の「季重ね」で、例へば、

   一家に遊女もねたり萩と月  芭蕉

といふ松尾芭蕉の『おくのほそ道』に収められた一句だが、この作品には秋の季語の「萩」と「月」が重なつてゐる。

もう一つは、「季ずれ」といつて、同じ『おくのほそ道』に収められた一句で、

蛤のふたみにわかれ行秋ぞ 芭蕉
 
この句の「蛤(はまぐり)」は春の季語で、「行秋(ゆくあき)」といふ秋の季語との異なつた「季」が一句中に重なつてゐる。


一般にはこのやうな「季重なり」の句は、どちらかに重點(ぢゆうてん)が置かれてゐるならば構はないと言はれてゐるが、「蛤の」句は「行く秋」が主になつてゐるのは解るにしても、「一家(ひとつや)に」の句については「萩」と「月」を比較して、いづれに重點が置かれてゐるのかを「蛤の」句ほど嚴密に決定しづらいやうに思はれる。
當然(たうぜん)、「月」が主であると多くの人は感じるのだらうが、「萩」だつて充分それに對抗(たいかう)できると考へられないだらうか。
そればかりか「月」に「芒」でも對(つい)になり得ると思はれ、人それぞれによつて理解の温度差が生じはしないだらうか。
さう考へると、一概に主になる季語が解り辛くても大きな差障りがあるとは言へず、問題はもつと別の處にあるやうに思はれる。


さうして、最後の一つとして季語が三つもある、

  目には青葉山ほととぎす初鰹 

といふ山口素堂(1642-1716)の有名な句があるが、これは雰圍氣はあるものの焦點が定まらず、幾つもの商品の型録(かたろぐ)を見せられたやうで感心は出來ない。
といふのも、型録は消費者に購買意欲をそそり少しでも購入してもらふ爲に樣々な商品を揃へるのだが、十七文字といふ世界で最も短い詩といはれる發句の季語でそれをされてしまふと目移りがして作者の主張が消え、讀者に選ばせる事が目的となつてしまふ型録の性質が強く現れてしまふから、寧ろ缺點(けつてん)が曝(さら)け出されてしまふ事になるのである。


更に、「目には青葉」の句は季語が三つもあるばかりに「三句切れ」になつてゐて、敢()へていふならば主題は「夏だなあ」といふ感慨だからそれほど優れた句とは言ひ難いだらう。
これは『發句雜記』でも既に述べた事だから重複(ちようふく)するが、あへて繰り返せば、

『古くは「三句切れ」といふものもあつたのだが、十七文字といふ短い文章の中に幾つもの休止があつたのでは、目移りがして主體を捉へ切れないから、自然と「三句切れ」の句數は禁則として嫌はれてゐるので多くはない』

と書いたが、さうして「句切れ」について、

『「句切れ」は發句に於いては、概(おほむ)ね、『二句一章』が基本であるといふ事を、『大須賀乙字俳論集 村山古郷編』講談社学術文庫で主張してゐた』

と續き、この『二句一章』に對して、

『それにも拘はらず、筆者は『一句二章』を唱へてゐるので、大須賀乙字(1881-1920)氏に異を唱へるやうに思はれるかも知れないが、實は「一句」に「二章」の文章から成るといふ事と、「句切れ」が「二句」ある「一章」の文章といふ意味で、その言はんとする所は大きく變るものではない』

と言ひ譯をして、

『しからば、なぜ混亂(こんらん)を招くやうな事をいふのかといふと、これについては項をあらためて説明したいと思ふ』

と書いたのであるが、ここでもそれはお預けとなつて『切字論』に稿を譲る事とする。


そこで話しは元に戻るが、發句の季語について述べて來たのに對して、今度は『切字』も必要とせず季語の代りに人事を主流として詠む川柳について調べて見る事にする。
といふのも、ここでもこの問題に大きな違ひがないとすれば、「季語・人事」のいづれにおいてもその役割がはつきりとするやうに思はれるからである。


例へば、

尖閣と竹島北方領土荒れ 不忍

といふ句を詠んでみたが、これも固有名詞が三つ竝んだ爲に「三句切れ」になつてしまつてゐて、どれに焦點を當()てて良いのか判斷に困るだらう。
だが、それでもこれは細かい處の事情が違ふとは云へ日本と外国との領土問題であるといふ共通項があるので、海が荒れるやうに國際紛爭として世間に吹き荒れてゐるといふ意味が讀取れるだらう。


それでは次に、

竹島と尖閣さらにオスプレイ 不忍

と詠んで見てはどうか。
これも領有權と他國の軍用機を自國に配備するといふ違ひがあるが、日本を取り卷く諸外國との軋轢が主題となつてゐて、型録になつてゐる事に變りはない。


最後に次のやうに詠めばどうか。

諍ひもガイアはひとつ地球國 不忍

國同士が排他的に領土を支配しようとして諍(いさか)ひをするのは、實(まこと)にみつともない上に戰爭までするなんて悲劇以外のなにものでもない。
日本の國だつて、播磨の國や攝津の國と幾つにも分かれてゐて爭つてゐたが、やがて統一されて日本となつたやうに、世界も亞米利加や露西亜、英吉利や中國といふそれぞれの國は地球といふひとつの國家に纏まれば、一氣に解決されてしまふのではないかといふ気宇壮大な川柳になる。


以上のやうに、川柳の人事とも言ふべき社會的な事件がふたつ以上重なると主題が幾つもあるのと同じで目移りがして焦點が惚け、作者の言ひたい事が分散されてしまふ事が解り、季語や人事が三つも重なつた「三句切れ」や、それが二つも重なつた場合と、人事や季語が一つに絞られた作品との違ひは歴然とする事が諒解(りやうかい)されるだらう。


これは何故なのかと考へるに、短篇小説と長篇小説との違ひにあるのではないかと思はれる。
短篇小説はその少ない分量から主題を一つの焦點を問題として取上げ、それを分析するやうに書き進めて行くのに比べ、長篇小説の場合だと異性に對する愛、つまり恋人同士の愛から軈(やが)て夫婦愛、さうして親子愛へと書き繋(つな)ぎ、最後に人類愛にまで言及する事が出來るばかりでなく、戰爭や平和についても書きたければ書く頁の餘裕がある。


ここまで言はなくても、短歌と發句との違ひを考察するだけでも納得出來るものと思はれる。
短歌は發句の『五七五』に對して『七七』の十四文字多いだけにも拘はらず、讀者に與(あた)へられる情報は格段に増えてゐるのである。
これも『發句雜記』の「十六、短歌と發句の表現の差に就いて」で述べた事だが、

「例へば、藤原敏行(?-901(907とも))の歌に、

  秋來ぬと目にはさやかに見えねども
  風の音にぞおどろかれぬる

といふ一首があるが、これは夏が過ぎれば「秋」になるとは誰でも知つてゐる事だが、だからといつて「秋」といふ實體(じつたい)は、まだ誰も見た事がなく、私(作者)は風の音に「秋」の存在を知覺して「おどろ」いたのである、と讀者に知らせたので、つまり、事件と個人との關はりを説明し、それによつて得られたある感情の發見の歡びを表現する事で讀者に納得させようとしてゐる。
從つて、「悲し」とか「あはれ」とか「美し」とかの感情を形容する言葉が多くなり、また發句に比べてそれを許す風景の細かい所まで行き屆いた表現が可能である文字數がある。」


 それに比べて發句には、

「短歌では感情や景色をこまかく形容する言葉が多くなるのに對し、發句は感情を『季語』といふ季節感に準(なぞら)へて、句の表面には出さないやうにして、全情景から喚起されたものに對して作者の私情を言ひ切り、發句はその情景に作者の感情の一切を任せ、句面は非情になり切ること」

といふ特徴があり、

「藤原敏行の歌を發句に讀み直して比較してみれば、

  秋は來(きた)れど見たものはなし風の色 不忍

となり、これを本歌取りの句といふのだが、元の歌の「おどろ」いたといふ個人の感情や、「目にはさやかに」と言つた言葉は省略され、「風」によつて發生する「音」といふものも言葉の外に含まさうとしてゐる。
詰りは、「悲しい」とか「驚いた」とか「美しい」とかの生の感情の形容を思ひ切り省いたものが發句であり、それを表白する文字數の餘裕がない」

といふ事が言へるのである。


これまでに述べたやうに發句に「季重なり」を禁則とする理由は、要するに文字數の問題である事が理解出來たものと思はれる。
長編小説のやうに何百頁にも及ぶ分量の餘裕があれば、主題が幾つあつても細かくそれについて解説出來て物語として書き進める事が可能なのであり、章を分けて愛の章、暴力の章、宗教の章といふやうに構成する事も出來る。
それに對して原稿用紙二、三十枚の短篇小説の作品に愛の章、暴力の章、宗教の章といふやうなものを書かうとするとどれも中途半端な事しか書けず、焦點のぼやけたものにしかならない。
それは發句の『五七五』といふ十七文字に、季語を幾つも重ねるのと同じ事になつてしまふのである。


もし、發句の「季重なり」に良い句があつたとしてもそれは偶々であり、季語がひとつの時のやうには事が運ばないのは、句作に手を染めれば容易に納得出來る筈のものなのである。
もしかしたら、山口素堂の「目には青葉」の句は、三つの「季重なり」あるいは「三句切れ」の作品に良い出来のものはないが、お一つ範をお示し願へないかと請はれるままに詠まれたものではないかと空想したりしてゐる。


二〇一二年九月十三日午前四時二十分店にて




關聯記事

十一、句切れ・意味切れ・述語切れ 『發句雑記』より

短歌と發句の表現の差に就いて 『發句雑記』より
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=63508675&comm_id=4637715



 










§






前 書

 
この作品を纏めるに當つて、少し書いておかうと思ふ。
といふのも、『發句拍子論』を書き始めた際、既に「季語論」と「切字論」とは筆者の中で青寫眞は出來上がつてゐた。
のみならず、今から二十年以上も前にSHARPの『X6800』といふ電腦(コンピユウタア)に前半の部分を書いておいたのだが、故障してしまつたので情報(デエタ)を取出せなくなつてしまつた。
そこで一から草を起さざるを得なくなつてしまつたのだが、よく考へて見るとそれを文章にするとなるとなかなかに難しいものがあつて、筆者の元を訪れた向學(かうがく)の人には理解してもらへるやうに説明が出來るのだが、書いて殘すとなると手順を蹈まなければならないので、とてもではないが一朝一夕にはいかない。
(つた)へようとすれば、稗田阿礼(生沒年未詳)のやうに口傳にするのが一番であるのかも知れないのだが、奇しくも丁度それが發句で「季語」がある事によつて理解し易くなつたのと同じやうにそれを解析して行く破目になつてしまつた譯である。
だから傳へなければならい事を整理して、御負けに稗田阿礼ばかりでなく太安万侶(?-723)の役目までしなければならないのだから、こんな大それた事は筆者の手に餘るかも知れないが、それでも拙いながら進める事にしようと思ふ。


二〇一二年一月二十六日午後五時過ぎ 店にて



§



一、設問するといふ事


よく訊かれる質問に、

「俳句とは何か」

といふのがあるが、これに答へなければならないのかと思ふと、

「やれやれまたか」

といふ氣がしてしまふ。
()して筆者のやうに明治期に正岡子規(1867-1902)よつて「俳句」と呼ばれる前の、發句を中心(メイン)として句作をしてゐる者にとつては、更に憂鬱になつてしまふのである。
何故かといふと、その質問に對しては「詩の一形態」だと答へれば濟む話だからで、期待されてもこれ以外に應(こた)へる術(すべ)はないものと思はれる。


これは野球選手に會見(インタビユウ)する時でも同じで、

「あなたにとつて野球とは?」

といふ身も蓋もない質問を投げかけてゐるのを見るが、これにどんな答へを要求しようといふのだらうか。
氣の利()いた(おうたふ)を望まれても、野球はスポオツの一つに過ぎないのだから、それに、

「野球は人生そのものだ」

といふ答へに窮して氣恥かしい事を言はなければならないのは、觀客の側が下を向いてしまはないか。
第一、野球は人生そのものではない。
野球選手にしたところが、死ぬまでその世界に留まつて生涯を終へる人は數へるほどしかゐないだらう。
それで「野球は人生そのもの」といふのならば、なんに對しても同じ事が言へるのではなからうか。
何事にも問ひかける質問が大切で、それ如何(いかん)によつて納得のいく答へが導かれるかどうかが決定されるものと思はれ、さきの質問だつて人それぞれの考へがあるので、正解といふものがある譯ではない。
一寸洒落た氣分を味はひたいのならばそれでもかまはないが、學門的に答へを得ようとするならば、質問の仕方に考慮しなければならない。


そこで答へを得られるべき質問とはどういふものかといふと、

「俳句とはどんな形式か」

あるいは、

「俳句は他の詩と、どういふ違ひがあるか」

と問へば樣々な條件を提示でき、

「短詩の一形態で、『季語・切字・五七五の十七文字』からなる日本獨自の形式」

とそれについて述べる事が出來、それぞれを細かく分析する手懸りが得られるのであるが、ここで最初に斷つておいた、

「俳句ではなく發句」

を句作すると筆者が言つた事について詳しく語つておかなければならないやうに思はれる。


といふのも、既に述べたやうに俳句は發句を基本として明治期に正岡子規よつてその名稱が流布されたもので、百年ほどの歴史があるだけだから、發句に比べればまだそれほどの傳統(でんとう)があるとも思はれない。
ただし、江戸期の文獻にも「俳句」と書かれたものもあるが、こんにちほど一般的ではなかつたやうであり、またこんにちのやうに發句の事だけを指したものではなく、平句も含めた廣い意味で言つてゐたやうである。


詰り、「俳味のある句」といふぐらゐの輕い氣分で言つたものであり、「俳味」とは『俳言』即ち和歌・連歌に使用されない俗語や漢語で表現する事を指したもので、俗語を正したと言はれてゐる松尾芭蕉(まつをばせう・1644-1694)でさへ、『奧の細道』の中の有名な、

夏草や兵どもが夢の跡 

といふ句の「兵」を「つはもの」と表記せずに敢(あへ)て漢字を當てたりした事をいふものだと筆者は考へてゐる。


そこで俳句について述べるよりも、發句の歴史を調べる方が、

『季語・切字・五七五の十七文字』

といふこれらの成り立ちが理解し易いものと考へられるので、勢ひそれについて考察して行かざるを得ない事になり、「五七五の十七文字」に就いては『發句拍子論』で既に解明濟みで、殘るは「季語」と「切字」の考察といふ事になる。
それで今囘の命題はといふと、『季語』について徹底的に解明して見たいと思つてゐる。


二〇一二年三月十日午前四時過ぎ 店にて




§


二、事の興り

さて、ここで筆者自身のお浚(さら)ひの爲にも發句について述べてみたいと思ふのだが、「連歌の作法」や「發句拍子論」、それに「發句雜記」によつて多くを語つてきたので重複(ちようふく)する部分が多々ある事と思はれ、それを承知で本題へ入つて行く事にすれば、

「芭蕉は俳句を詠まなかつた。彼が詠んだのは俳諧の發句である」

と常々述べて來た筆者だが、その大本は連歌にあり、芭蕉自身は、

「俳諧・俳諧の連歌・連俳」

と述べたと、弟子の書物の中にある。


そこで『連歌』とは、

短歌の「上句・五七五」と「下句・七七」を分けて詠む事で、その方法としては、

「獨吟」の場合だと、「五七五」と「七七」を獨りで詠み續け、

「兩吟」の場合だと、「五七五」を一人が詠んだら、「七七」と次の「五七五」をもう一人が詠み、再び、「七七」「五七五」と二人で詠んで行くので、「五七五」「七七」を別々に詠む事が出來ないから、必ずしも交互に詠む事を基本とするものではない。


更に連歌には、「上句・五七五」と「下句・七七」を合せて「百句」になるものを、

『百韻連歌』

と言ひ、その半分の「五十句」のものを、

『五十韻』

といふ。
さうして、「四十四句」で一卷とするものを、

『世吉連歌(世久連歌)

また、「三十六句」で一卷とするものを、

『歌仙』

更に一卷「二十四句」からなるものもあり、それは暦法二十四節氣によるもので、別に「箙(えびら)」といふ矢を入れて腰につける武具で、それに刺す矢の數に因んだものともいはれ、

『二十四節』

と言ひ、芭蕉以降は、『歌仙』の形態が多く見られ、初めに述べたやうに、俳諧といふ滑稽を目的としたものは、和歌も傳統を受け繼いだ幽玄で優美さを重んじた純正な連歌を、

『有心連歌(うしんれんが)

といふのに對して、

『無心連歌(むしんれんが)

と言ふ。


 その『連歌』の第一句目を『發句(ほつく)又は立句(たてく)』と言ひ、

第二句は、『入韻(じふゐん)』とも古くは言つたが、普通には『脇』と言ふ。

第三句は、『て止まり・らん止まり』の句で、『第三』と言ひ、

第四句は、『第四』で、

それ以降は呼名がなく、最後の『擧句』を除いて『平句』と言ふとものの本にある。


この連歌から獨立した場合の「發句」の五七五と「平句」の五七五の差は、發句はその名の通り最初に發する句だからその前には下句の「七七」がないのに比べ、「平句」の場合は前句の「七七」といふ前句の内容を受けて作るので前句の影響下にあるが、發句にはそれがないといふ差がこの二つには歴然とあり、その違ひがはつきりと認識できるものと思はれる。


平句はのちに江戸中期に「七七」の前句を提示して、それに下句に「五七五」を募集して點數(てんすう)をつけるといふ『前句附』が流行した。
それを點者(てんじや)がなにがしかの手數料を得て採點するのだが、中でも柄井川柳(からゐせんりう・1718-1790)が壓倒的な人氣を博し、まるで軒を貸して母屋を取られるやうに川柳の名が『前句附』の名稱(めいしよう)となつてしまつたのである。
彼の編纂した『誹風柳多留』がそれに當り、辭書(じしよ)によれば川柳の號(がう)は十五代まで續いたさうである。


一方の「發句」は、すでに述べたやうに連歌の座を開催する時に初めて詠む句の事で、それは人を訪ねた時の挨拶で、季節感が入るのは手紙の冒頭の時候の挨拶の時と同じであり、招かれた客が發句(友人からの手紙)を詠み、招いた亭主が脇(受けてからの返信)を詠むといふ事でもそれが知られるだらう。
從つて、連歌における發句の表現方法と、獨立した「發句」の表現の違ひは當然(たうぜん)あつてしかるべきで、それを芭蕉の有名な句で述べれば、

  暑き日を海にいれたり最上川

といふ句が『奧の細道』にあるが、これが連歌になると、

  涼しさや海に入れたる最上川

と詠まれてゐて、一句の獨立(どくりつ)性が失はれて挨拶の句となつてゐる。


連歌の發句の場合に獨立性を排して個性を缺如(けつじょ)させたのは言ふまでもなく脇を詠む客に應じた爲であるのだが、主題の、「涼しさ」を句中に押込めた獨立した「發句」と、それを挨拶として前面に表現してしまつた連歌の發句の差を考へれば、そこにある文章作法としての秘密が垣間見える事に氣がつかれないだらうか。


二〇一二年三月十二日午前四時半店にて




§




三、發句と短歌の違ひ


既に述べたやうに、發句は連歌の立句から成立したものである。
ご存知の方もをられるだらうが、連歌に於ける立句とはその座に出席した人々に對(たい)しての挨拶として、季節を詠む慣はしになつてゐる。
それは丁度、手紙で本題に入る前に、時候の挨拶から始めるやうなものと同じであらうかと思はれる。


それが獨立して發句となり、季語は感情の象徴として發展して、世界最短の文學形式となつたのであるから、脇句の「七七」といふ十四文字を受けて、季語も切字も必要としない同じ十七文字の形になる川柳とは、大きな違ひがある。


では、連歌と短歌の違ひに就いてはどうかといふと、連歌は發句や平句に拘はらず「五七五」の十七文字で一つの意味を成して、獨立しても鑑賞に堪へる體(てい)でなければならず、脇句の「七七」の十四文字と雖(いへど)も詩想として獨立した意味を成してゐなければならない。
そればかりではなく、發句や平句の「五七五」が前の脇句の「七七」と合はさつて短歌となつても、體裁(ていさい)ばかりでなく詩情として保つてゐなければならない。


それに比べて、短歌は三十一文字(みそひともじ)で一つの感情を表してゐて、連歌のやうに「五七五」と「七七」のやうに意味を分ける事は出來ないといふ傾向が強いと感じられ、これは紫不美男氏の、

『短歌の發想』


で述べられてゐるやうに、「原因と結果」或は「結果と原因」といふ構成で一首が成立してゐるものと思はれる。


そこで短歌と發句の違ひは何處にあるのかといふ問題になるのだが、これは拙作の『發句雜記』の

「十七、短歌と發句の表現の差に就いて」


で既に述べた事だが、短歌の場合は詠歎的な表現を主流とし、發句は感情を封じ込めて全てを言ひ切るといふ傾向が強いといへるだらう。
では、一口に言つて短歌と發句の違ひは何かといふと、動畫(どうぐわ)と寫眞(しやしん)の差であると筆者は考へてゐる。
短歌に詠まれたものは情景が動いてゐて、發句は寫眞のやうに情景が一瞬の空間に貼りついてゐる、と言へば解つてもらへるだらうか。
その意味では、短歌は二、三分の短篇映畫であるならば、發句は一幅の墨繪または繪畫であると言へまいか。


二〇一二年六月十五日午前四時店にて





§




四、發句と川柳の違ひ



川柳は『人事』を詠むといふが、『人事』とは自然の事柄に對して人間の生活の事柄を指すものと思はれるが、發句の世界では『天文・地理・動植物』以外の題材として『人事』も勿論ちやんとある。
しかし、ここでいふ川柳における『人事』とはさういふものではなく、『季語』としての役割を持たずに詠む、『流行・人情や風俗』等の『人事』の事を指してゐて、それが何かといふと世相の事件を詠むことだといへば解り易いのではないだらうか。
この事によつて、短文による發句の『季語』と川柳の『人事』とは何か、といふ事を解析する手懸りになるものと思はれる。


川柳は「七七」の「前句」を受けて「五七五」の十七文字の平句を詠む事で、連歌の第一句目を發句といふから、發句には川柳のやうに「前句」の「七七」はなく、その發句を受けて次の第二句の脇の「七七」が詠まれ、その「七七」を前句として、第三句目の「五七五」の十七文字の句を詠むので、これを川柳と同じだと考へれば理解し易いと思はれる。
嚴密には、式目では『第三』は『て止まり・らん止まり』の縛りがあるものの、それを考慮に入れなければ、『季語』も『切字』もないといふ意味では、さう考へても問題はないやうに思はれる。


そこで發句の『季語』と川柳の『人事』によつて詠まれた作品の違ひはどのやうなものになるのかといふ事だが、そこには判然(はつきり)とした差があるやうに見受けられる。
例へば、

役人の子はにぎにぎを能く覺え

といふ句があるが、これは役人が袖の下即ち賄賂を貰つたりしてゐるので、その子共も手を握つたり廣げたるする動作を早く覺えると皮肉つたものである。
これなどは今日(こんにち)でもありさうな光景で、風俗の著物が洋服に變化した爲に袖がなくなつたので、「袖の下」といふ言葉だけを殘したものの、比較的時代に左右される事の少ないものであると言へるだらう。


しかし、その時代に起きた事件などを扱ふ場合もあつて、鋭い世間の批判をする時などは、例へば、發句の川柳に對するやうに、短歌に於ける狂歌にも、

  泰平の眠りをさます上喜撰
たつた四杯で夜も眠れず

といふものがあるが、これは嘉永六年(1853)浦賀沖に四杯の蒸氣船で入港した伯兒離(ペリイ・1794-1858)が開國を要求した事件を詠んだものであるが、上等な『上喜撰』といふ宇治の銘柄のお茶を四杯も飲んだら夜に眠れなくといふ意味とを掛けたもので、この事件が日本中を騷がせた當時を髣髴とさせた作品であるのは理解出來るものと思はれる。
けれども、あれから約百六十年經つた現在、その事件を知らない鑑賞者には解説されなければその意味を諒解(りやうかい)出來なくなつてしまつてゐる事に氣づく筈である。
それは狂歌のみならず川柳などが世相の事件を詠むといふ性質上時代の經過に耐へられず、歴史の闇に沈んで、その事件が隱れてしまふといふ傾向が強いと言へるからである。


それに比べて發句の場合は、

  古池やかはづ飛び込む水の音 芭蕉

この句のやうに「かはづ()」といふ春の『季語』があつて、これは時間の經過に影響を受けずに、平安時代だらうが江戸時代だらうが、さうして現代だらうが、未來に「かはず」が絶滅してしまはない限り歴史の上に君臨し、讀者の前に説明を必要としない普遍的な存在としてあり續けるのである。
勿論、『季語』と雖(いへど)も、『砧(きぬた)』にやうに流行(はや)り廢(すた)りの影響を受けるものもあるが、川柳に比べると搖れ幅は少ないと言へるだらう。


また、發句の『人事』としては、

物書て扇引き裂く余波哉 芭蕉

といふ句の「扇(あふぎ)」がそれに當るが、川柳の場合だと、

  寢てゐても團扇のうごく親心

といふ句があり、同じやうな「扇」や「團扇(うちは)」といふ小道具を使つてゐても、發句の方は心理的な感情の搖れを表現してゐるのに比べ、川柳は道徳的で説教臭く感ぜられるやうに、どちらも時代によつて古びる事のない日常の生活の一部を切取つた作品であるものの、發句が人間の精神に根ざした表現をしてゐるのに比べ、川柳は庶民生活に根差す傾向が強く感ぜられないだらうか。
(かつ)て發句の專賣特許でもあつた滑稽を信条とする『有心連歌(うしんれんが)』的なものが川柳に移行し、發句は短歌のやうな『無心連歌(むしんれんが)』へと昇華されたやうに筆者には思はれてならない。
このそれぞれの作品の完成された發句らしさと川柳らしさは、『人事』と『季語』の差によるものだと考へられるだらう。
その意味で發句と川柳の棲み分けは、充分過ぎる程に完結してゐるものと思はれる。


二〇一二年六月二十八日午前四時




§



この作品を讀む時に、この音樂を聞きながら鑑賞して下さい。
 これは自作(オリジナル)

Motion(ピチカアト・Pizzicato) 曲 高秋 美樹彦』

 といふ曲で、YAMAHAの「QY100」で作りました。

映像は四國の徳島懸にある、

『大歩危・小歩危』

へ出かけた時のものです。

 雰圍氣を味はつて戴ければ幸ひですが、ない方が良いといふ讀者は聞かなくても構ひませんので、ご自由にどうぞ。





§





五、歳時記に就いて


發句が短詩形で有り得た理由は季語にあると筆者は語り、それを解析する爲にこれを書いてゐるのだが、今囘は季語の集大成とも言へる『歳時記』に就いて述べてみたい。
 その理由はいふまでもなく、詩の表現として季を立ててそれを題材として創作するといふ事はあらゆる文藝に於いて有り得る可き事であるが、發句に限つては季を外して表現しないといふのが基本となつてゐて、他の部門(ヂヤンル)の作品のやうに季節とは無縁のものを題材とするのは、極めて稀な事であると言へるからである。


 その季を集めたものが『歳時記』であるが、調べてみると現存する最古のものは六世紀の中国の年中行事を月毎にまとめた『荊楚歳時記』があり、奈良時代に日本に傳來(でんらい)し『歳時記』という呼稱(こしよう)が知られるやうになつたとある。
日本獨自の『歳時記』は貝原益軒(1630-1714)の『日本歳時記(1688)』が始まりとされ、
それ以前にも季語を蒐集(しうしふ)した『季寄せ』が連歌のころから存在してゐて、兩方の要素を組合せた北村季吟(1624-1705)の『山の井(1647)』がある。
これ以降には、瀧澤馬琴(1767-1848)の『俳諧歳時記(1803)』があり、これは明治になつても増補版が出版せられてゐたといふ。


狩獵から稻作文化の發達によつて、それらの収穫の爲にそれに伴ふ気候、例へば秋刀魚の獲れる時期だとか稻の種を蒔く時期、旱魃の時に雨を願つたり、苦勞の末に得られた時の収穫の喜びなどといふ精神的なものを祭事として一定の時期に集團で行ひ、それが年中行事(ねんちゆうぎやうじ)として纏められ、それが『季寄せ』や『歳時記』のやうなものに結實(けつじつ)するといふのは想像に難(かた)くないだらう。


その『歳時記』にも一八七二年十二月に日本が太陽暦を導入し、陰暦との季節のずれで『歳時記』の内容に大きな混亂(こんらん)が生じ、四季とは別に新年の部を立て、立春を二月にする事で陰暦から一箇月の遲れを調整したが、抑々(そもそも)、それにしたところで日本は南は沖縄から北は北海道に到るといふ縱に細長い列島なので、櫻前線ひとつ考へてみても解るやうに、一箇月の遲れをどうにか出來るやうなものではない。
そこで日本標準時が子午線のある明石としたやうに、季語も京都を基準として編纂されてこんにちに到つてゐると言つていいだらう。


これまで述べたやうに連歌の發句に季語がある第一の理由は、和歌に「母」や「山」の前に「たらちね」とか「あしひき」のやうな枕詞があるやうに、手紙で本題に入る前に氣分を和らげる爲の枕のやうな挨拶として季節の事柄から述べたのが原因であらうかと思はれる。
勿論、親しい者や緊急の時などには、近況やそれを略して本題から入る『前略』といふ簡略化された冠省もあるのだが、正式な書翰の冒頭には『拜啓・謹啓』から結語として『敬具・敬白・謹啓・頓首・恐々頓首』を用ゐる作法が基本であらうが、そのあと直ぐに本題に入るといふ無粹な事をせずに、季節の挨拶を前においてから始めるといふ手續きで緩衝(くわんしよう)の役目を與(あた)へてそれを嗜(たしな)みとしたのであり、それ故にこそ「客發句」と言はれる所以(ゆゑん)なのである。
因みに『前略』の場合『草々・匆々・不一』で結ぶ事になる。


發句に『季語』が取入れられたのはさういふところに起因すると思はれるが、その源流をたどれば日本最古の和歌集『萬葉集(まんえふしふ)』の「部立て」にあるものと考へられ、その『萬葉集』では、

「相聞(恋慕や親愛の情を述べた歌の事)
「挽歌(中國で葬式の時に柩を挽()く者が死を悼む爲に歌つた歌の事)
「雜歌(中國の『文選(もんぜん)』の雜歌・雜詩・雜擬の分類にならつたと考へられてゐる)

を三大部立てといふとある。


『萬葉集』では相聞(さうもん)・挽歌(ばんか)以外の總(すべ)てを雜歌(ざふか)としてゐて、行幸(ぎやうかう)、遷都、宮廷の宴會(えんくわい)などの公的な場の作品が多数あり、

「春の雜歌・夏の雜歌・秋の雜歌・冬の雜歌」

とういふ四季も勿論含まれてゐ、また相聞・挽歌の前に配列される事から、雜歌こそが和歌の基本だと考へられてゐるやうだ。
それが『古今集』以降になるとそれまで一緒だつた、

「春・夏・秋・冬・賀・離別」

から分かれて、「雜」といふ部立ての一つとなり、卷末に配されるやうになつて完全に「雜」の扱ひとなつてゐる。


この分類が進んで、

『四季・賀・離別・羇旅・物名・戀(相聞)・哀傷(挽歌)

といふ部立てから、連歌の

『神祇(しんぎ)・釋經(しやくけう)・戀(こひ)・無情(むじやう)・名所』

へと變遷(へんせん)し、これらに屬さない「雜」ものを俳諧では無季及び附句の事を指すやうになつて行つたと考へられる。


                                        
この中の、

『四季・賀・離別・(相聞)・哀傷(挽歌)

これらについては説明の必要はないものと思はれ、また、

羇旅(きりよ)

についても旅の事であるといふ推察が出來、

『名所、舊蹟(きうせき)

と同じものであると諒解(りやうかい)出來るだらう。


恐らく解らないのは、

『物名(ぶつめい)

の事であらうかと思はれるが、これは平安以降に歌の意味に關係なく物の名を詠み込んだ歌の事で、

秋ちかう野は成りにけり白露のおける草葉も色かはりゆく

この歌の二文字目から八文字目までに「きちかうのはな」と詠み込んでゐて、「きちかう」とは「桔梗」のことで、このやうに物の名を詠み込んだ歌の事を、『物名歌(ぶつめいか)』とも『もののなのうた』とも言はれてゐると辭書(じしよ)にあるが、これは『mixi』上で筆者が誕生日にマイミクの名前を折込んだ發句を贈つてゐるので、氣がつかれる人もあらうかと思はれる。

マイミクの方の誕生日(二〇一〇年七月から十二月にかけて)に送つた發句


さうして、これらは後に俳諧の世界で花開いて、

『雜俳(ざつぱい)

として實()を結び、

「前句附け(川柳)・笠附け(冠附け)・沓(くつ)附け・折句(をりく)

として遊びの世界を擴げてゐる。

雜 俳 考 『廻句』、『廻歌』の投稿を受附ます
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=48707422&comm_id=4637715


かうして『季語』と『雜(ざふ)』の棲み分けがはつきりとして、連歌から發句、さうして芭蕉から蕪村や一茶を經て、明治期の俳句となつたのだが、これについて正岡子規(1867-1902)が『俳諧大要』でこんな事を言つてゐる。

「俳句四季の題目の中に人事に属し、しかも普(あまね)く世人に知られざるものには季の感甚だ薄きを常とす。例へば筑摩の鍋祭の如き、夏季に属すといへどもこれ詠ずる人、またその句を読む人多くは夏の感を有せず。いはんやその四月なるか五月なるかの差異に至りは殆どこれを知らず、故にこの題を詠ずる者は甚だ苦吟し、はた古来これを詠じたる句も無味淡白を免れず。これ時候の聯想なきがためなり。(岩波文庫)


これを現代風に言へば、

「『季語』があつてもその季語が珍しい題材で詠む人が少なく、一つの作品しか見當らない場合だと季節感が喚起されず、むしろそれを讀んだ人は「雜」の句を讀んだのと同じ感觸を持つのではないか」

といふ事になるがここで問題になるのは二つあつて、一つは『季語』を詠み込んでも讀み手にその知識がなければ、『季語』とはならないと言つてゐる事で、子規はこの後も例を示してこの事に言及してゐる。
 けれども、ここで子規が述べてゐる事は『季感』があるかないかといふ事であつて、『季語』がどのやうなものであるかについて解明してゐる譯ではない。


 二つある内のもう一つ目がそれについて語る事になるのだが、それは後に譲るとして、ここでは『季語』がどのやうにして決定されて來たのかを考へてみたい。
といふのも、長い歴史の中で繰返されたものが定着して『歳時記』として纏められたには違ひないのだが、最古のものと言はれる中国の『荊楚歳時記』にしても一人若しくは數人で書き殘されたものだと考へられるし、それ以降の『歳時記』も貝原益軒や北村季吟、また瀧澤馬琴などの個人によつて編纂されたものが主流であつたものと思はれる。
これは各國の辭書(じしょ)が編纂された状況と似てゐて、獨逸の場合でもグリム兄弟(1785-18631786-1859)で作られてゐるし、『大言海』の大月文彦(1847-1928)や『廣辭苑』の新村出(しんむらいづる・1875-1967)と極めて少數の人が携はつて成果を上げたものである。



それが明治以降から文明の發達によつて世界の交流が飛躍的に活溌になり、動物や植物は無論のこと、食べ物や日常の生活に到るまで激變(げきへん)と言つて良い程の變化が起き、日本古來の生活環境は地方へ出かけたとしても滅多とお目にかかれなくなつたしまつた。
更に、技術の進歩によつて野菜もハウス栽培で収穫の時期に左右されないものも出來るやうになり、魚なども養殖が盛んになつたので以前のやうに季節感が決定的なものとはならなくなつて、『季語』の中にだけそれが殘つてゐるといふ逆轉の現象が生じるといふ皮肉な結果となつてゐる。


それに機器の發達によつて新たな用具の出現で廢(すた)れてしまつた器具などもあつて、それは例へば「砧(きぬた)」などがあるが、さうかと思ふと「スモツグ」や「檸檬(レモン)」などもあつて、「檸檬」については『Twitter』で、

  洗ひたてのレモン手にして梅雨曇 不忍 

といふ句を發表したところ、「レモン」の『季語』は秋だとの指摘があり、筆者も國語辭典(じてん)や歳時記を調べたが簡易な辭書だつた所爲(せゐ)か見當らず、昔『歳時記』であつたと記憶してゐる冬の季語の「スモツグ」も見當らなかつた。
手元にあつた「広辞苑 第三版」にも「レモン」季語はなかつた。
早速、インタアネツトで調べ直してみると、「レモン・スモツグ」のどちらもあつて、「スモツグ」は冬で「レモン」は秋だつた。


再度、筆者の電子辭書「SHARP papyrus PW-AT770」でコンテンツが99もあるものと、マイミクの蒼鳥女史の「casio」のEX-wordを比較してみたところ次のやうな事が解つた。

「古語辞典(旺文社)
「合本 俳句歳時記(第三版)
「國語辭典(大辞林第三版)

これが筆者の電子辭書で、

casio」のEX-word
「古語辞典」
「広辞苑(第六版)

これが蒼鳥女史の電子辭書で、これを調べてみると、「古語辞典(旺文社)
「檸檬」の輸入された時期とは合はないので省き、「國語辭典(大辞林第三版)」も比較の仕樣がないので省くしかないだらう。
そこで「広辞苑 第三版」と「広辞苑(第六版)」の比較となるのだが、ここにこそ「檸檬」が秋の『季語』として認定されて辭書に収録されたのが最近の事であると推理出來る手掛かりが見つけられる。
恐らく「広辞苑」の「第四版」から「第六版」のいづれかの時期に採用されたのだらう事が解る。


では、『季語』は誰が認定して『歳時記』に収録してゐるのだらうかと思ふのだが、さう考へた理由として、『萬緑』といふ夏の『季語』があつて、

万緑の中や吾子の歯生え初むる 草田男

この昭和十四年の作である中村草田男(1901-1983)の有名な句によつて『歳時記』に定着させられてゐるのであるが、『萬緑』の出典は兔も角、歴史といふ時間に吟味された上でのものとは思はれず、そこには俳壇と言ふ官僚的な力が働いてはゐるのではないかといふ危惧が感ぜられる憾(うら)みはないだらうか。
それが筆者の思ひ過しだとしても、『季語』はこれからも増えて行くものと思はれるが、それがさうなる爲(ため)の手續きをどうするかといふのは大きな問題點となるやうに思はれる。
勿論、それはそれを『季語』と認識して句作する人が増える事によつて、讀者に自然に浸透して行つて『歳時記』に掬い上げられるといふ手續きを蹈むのが、一番穩當(おんたう)だとは思ふのだが、子規の述べた問題とも鑑みれば、更に『季語』の役割とは何かといふ問題の根は深いと考へられる。


二〇一二年八月十一日正午十分自宅にて



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五、調べ 『發句雜記』より



參考資料

Wikipedia
俳諧大要 正岡子規著 岩波文庫
廣辭林 新訂版 昭和十年度發行 三省堂
広辞苑 第三版 昭和五十八年度發行 岩波書店
SHARP papyrus PW-AT770




これからの豫定として、次のやうに發表したいと思ひます。

六、『季重なり』に就いて
七、『無季』に就いて
八、文學的表現と日記的表現の差に就いて




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發句(ほつく)拍子(リズム) A Hokku poetry rhythm theory
第一章 前書





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