2012年4月27日金曜日

Ⅲ、發句(ほつく)拍子(リズム)論 A Hokku poetry rhythm theory 第七章 『心理切れ』の拍子に就いて


この作品を讀む時に、この音樂を聞きながら鑑賞して下さい。
 これは自作(オリジナル)

 『絃樂器(strings)

 といふ曲で、YAMAHAの「QY100」で作りました。
 雰圍氣を味はつて戴ければ幸ひですが、ない方が良いといふ讀者は聞かなくても構ひませんので、ご自由にどうぞ。

 



        第七章 『心理切れ』の拍子に就いて

 

 

 『心理切れ』といふものに就いては、これまでに少しだけ觸()れた事があるのだが、その時に『語切れ』といふものと一緖に説明した筈で、その『語切れ』とは何かに就いては、「定型の十七文字に就いて」の項で既に説明したやうに、『中句切れ』或いは『中折れ』と言つて、次のやうな句を擧()た。

 

   C♪♪♪♪♪♪†|♪♪♪♪†ζ|♪♪♪♪†ζ|

    さまざまのこと おもふだす  さくらかな

    さまざまの 事   思 ひ出す  櫻 かな   芭蕉

 

 この句は『中句切れ』で、「事」の所でどちらにでも切れる。

 

   C♪♪♪♪†ζ|♪♪♪♪♪♪♪♪|♪ † † ζ|

    あけぼのや  しらうをしろきこ といつすん

     明 ぼのや  しら 魚 しろきこ と 一 寸  芭蕉

 

 これは下句の初めの、「こと」といふ二音目の所で切れてゐる。

 

   C♪♪♪♪♪♪♪()()†ζ♪ ♪ ♪♪|♪♪♪♪†ζ|

    ほととぎすなく や  ごしやくの あやめぐさ

    ほととぎす 啼  や  五 尺 の  菖蒲 草  芭蕉

 

 この句も『中句切れ』で、「や」といふ切字の所で、一小節目の最後の『八分音符()』と二小節目の最初の『四分音符()』とが、この音符には表記されてゐないが弧結(タイ)によつてひと續きの『符點四分音符(.=†+♪)』の音の長さになつてゐて、無論、芭蕉の事だから「『一句二章』となつてゐるが、これらが『語切れ』といふもので、語の意味によつて切れるから、『意味切れ』とも稱(しよう)するといふ事は、先に述べた通りである。

 

 

 では、『心理切れ』とは何かといふと、これは『語切れ・意味切れ』といふ名稱と共に、作者が勝手に作つた言葉で、どういふ意味かといふと、發句(ほつく)の中句七音の時に『四音三音』の場合、中句は下語句に對(たい)して停滯感を與(あた)へ、中句が『三音四音』の場合は、心理的に下五句へ繋がらうと流れて行く、これを『心理切れ』と言つてゐる譯(わけ)である。

 例へば、次の句の中七句は『三音四音』で、

 

   C♪♪♪♪†ζ|γ♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪†ζ|

    ふるいけや   かはづとびこむ みづのおと

     古 池 や    蛙  飛び込む  水の 音  芭蕉

 

 これは定型の音型である、

 

   4|4♪♪♪♪†ζ|γ♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪†ζ|

 

   4|4♪♪♪♪†ζ|♪♪♪♪♪♪†|♪♪♪♪†ζ|

 

 このやうな二つの音型の内の、中七句の先頭に『八分休符()』のある方を利用してゐるが、この事によつて中七句から下五句にかけて、中七句の「飛び込」んだ「蛙」の「水の音」が、直ちに聞こえるやうに感じられるのである。

 

 嘘だと思ふならば、この句の中七句を、

 

   C♪♪♪♪†ζ|♪♪♪♪♪♪†|♪♪♪♪†ζ|

    ふるいけや  とびこむかはづ みづのおと

     古 池 や  飛び込む 蛙  水 の 音

 

 このやうに『四音三音』に變()へて見ると、中七句と下五句の間に隙間が出來て、時間の停滯を感じる事になり、「蛙」が「飛び込」んでも、「水の音」がすぐに跳ね返つて來ないやうな憾(うら)みがあるが、それは中七句の最後の「蛙」の「づ」の音に、『四分音符()』を與(あた)へてしまつた爲で、「蛙」が「池」に「飛び込」んだといふよりも、緩(ゆつく)り「水」に浸()かつたやうに感じられないだらうか。

 

 

 さうかと思ふと、又、逆にそれを利用した發句も當然(たうぜん)あつて、それは例へば、

 

   C♪♪♪♪†ζ|♪♪♪♪♪♪†|♪♪♪♪†ζ|

    ゆくはるや  とりなきうをの めになみだ

     行 春 や   鳥 啼 魚 の 目に 泪   芭蕉

 

 このやうな句で、これは中七句の「魚の」といふ語の「の」に『四分音符()』を與(あた)へる事によつて、「魚」に何が起きたのか或いは何があるのだらうかと、讀者に期待を抱かせるのに充分な音型であると言へるだらう。詰り、この二つの音型はただ單に『拍子』としてあるのではなく、語に從つてゐるからその存在價値があると言へるのではなからう()

 

 

 その最も好い例が、次の与謝蕪村の句で、

 

   C♪♪♪♪†ζ|♪♪♪♪♪♪†|♪♪♪♪†ζ|

    はるのうみ  ひねもすのたり のたりかな

     春 の 海    終 日 のたり のたりかな  蕪村

 

 この句は、中七句が『四音三音』の音型であり、「のたり」の「り」に『四分音符()』を與(あた)へてから下五句に移行するので、ゆつたりとした氣分になるのである。

 

 

 これが若し、

 

   C♪♪♪♪†ζ|γ♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪†ζ|

    はるのうみ   のたりひねもす のたりかな

     春 の 海    のたり 終 日  のたりかな 

 

 といふ『三音四音』の音型だと、二つの「のたり」の間に「終日(ひねもす)」といふ『四音』に言葉があつても、『拍子(リズム)』は中七句から下五句へすんなり流れてしまつて、搖蕩(たゆた)ふやうな、「のたり」とした感じが出ない。

 

 

 のみならず、中七句の『四音三音』による七音の最後の『四分音符()』は、音符として表せない休符の役目があつて、次に示す和歌の、

 

   C♪♪♪♪†ζ|γ♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪†ζ|

    みちのくの   しのぶもぢずり たれゆゑに

     陸 奥 の   しのぶもぢ摺り たれゆゑに

 

         ♪♪♪♪♪♪†|♪♪♪♪♪♪†|

         みだれそめにし われならなくに

          亂 れそめにし われならなくに  河原左大臣

 

 それがこのやうに和歌などに利用されて、下七句の「われならなくに」の「に」に『四分音符()』を當てる事で、終始感を與へるのに役立つてゐるが、これは何も『三音四音』の時には、休止がないといふのではなく、

 

   C♪♪♪♪†ζ|γ♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪†ζ|

    おくやまに   もみぢふみわけ なくしかの

    奥 山 に    紅葉 ふみわけ 鳴く 鹿 の

 

          ♪♪♪♪♪♪†|γ♪♪♪♪♪♪♪|

          こゑきくときぞ  あきはかなしき

          こゑ聞くときぞ   秋 はかなしき  猿丸太夫

 

 「秋はかなしき」の「き」に『八分音符()』を宛(あて)がつた場合は、『四音三音』の時の七句に比べて、その休息感がより際立つてゐるといふに過ぎないと言へるだらう。

 何故なら、和歌が『四分四拍子』の『五小節』で構成されてゐる以上、詠まれる事のない『六小節』目の『四分音符四拍(††††)』分の休止が、歌全體の餘韻(よゐん)として殘(のこ)されてゐるからで、これは發句の場合でも『四小節』目を同樣に扱へるのはいふまでもないだらう。

 

 

 又、これは餘談だが、何かの書物で『萬葉集(まんえふしふ)』の各和歌の『下句七七』の最後の七音は、『三音四音』の場合と『四音三音』が程よく交互に竝べられてあるが、『古今和歌集』や『新古今和歌集』は、『三音四音』の音型が壓倒的(あつたうてき)に多いのが特徴であるといふ文章を讀んだ記憶があるが、これものんびりした時代から、戰などの世知辛い世の中になつて、會話の速度が要求されるやうになつたりしたのが原因かも知れないだらう。

 

 

 更に、和歌に於いても

 

   C♪♪♪♪†ζ|γ♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪†ζ|

    せをはやみ   いはにせかるる たきがはの

    瀨を 早 み    岩 にせかるる  瀧 川 の

 

        ♪♪♪♪♪♪†|γ♪♪♪♪♪♪♪|†ζζζ|

        われてもすゑに  あはむとぞおも ふ

        われても 末 に  逢はむとぞ 思  ふ   祟德院

 

 この歌のやうに下句が「七音八音」で、八音の音型が『三音四音』になつたが爲に、和歌の『四分四拍子』の『五小節』といふ『拍子』を破つて、『六小節』になつてしまつたが、六小節目の一拍だけを活用するのは、發句の『三小節』が『四小節』になつても構はないといふ許容と同じで、『破調(はてう)』ではあつても問題はないといふ事は、もうお分かり戴けるものと思はれる。

 

 

 ところで、この『七音』といふ音型は、ここまで述べて來たやうに『下句七七』の音型の時にこそ、その眞價が發揮され、例へば、

 

   Cγ♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪♪♪†|

     さんさしぐれか かやののあめか

     さんさ 時雨 か  萱野 の 雨 か

 

        γ♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪†ζ|

         おともせできて ぬれかかる

          音 もせで來て 濡れかかる

 

 この作品は『さんさ時雨』と言つて、宮城縣の民謠であるが、實(じつ)は伊達正宗の歌が原型であると傳(つた)へられてゐる。

 

   C♪♪♪♪†ζ|♪♪♪♪♪♪†|♪♪♪♪†ζ|

    おともせで  かやののよるの しぐれきて

     音 もせで   萱野 の 夜 の  時雨 きて

 

        γ♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪♪♪†|

         そでにさんざと ぬれかかるらん

          袖 にさんざと 濡れかかるらん   伊達政宗

 

 勿論、後から附會(ふくわい)された説明であらう、と池田弥三郎著の『日本故事物語』にあるが、然し、それはそれとして、

 

   Cγ♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪♪♪†|

     さんさしぐれか かやののあめか

     さんさ 時雨 か  萱野 の 雨 か

 

        γ♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪†ζ|

         おともせできて ぬれかかる

          音 もせで來て 濡れかかる

 

 この『さんさ時雨』の拍子を調べてみると、「さんさ時雨か」といふ最初の七音の言葉は『三音四音』で、『八分休符()』のある音型から始まつてゐて、「萱野の雨か」といふ『四音三音』の音型になつて、「雨か」の「か」に『四分音符()』を與(あた)へてゐるから、終始感が強まり、更に、次の「音もせで()が『三音四音』で『八分休符()』のある音型から始まつてゐるので、その『八分休符()』が、前の「萱野の雨か」の「か」といふ言葉に、全部で『四分音符()』足す『八分休符()』で『附點四分音(†.)』の音の長さが宛がはれてゐる譯で、これは『四分音符()+八分休符()』或いは『(八分音符()+四分休符()』といふやうに考へられるので、より一層の停滯(ていたい)即ち休息感を強める手助けをする事になつてゐるのである。

 

 

 猶、最後の「濡れかかる」といふ言葉は元歌の「濡れかかるらん」といふ『七音』と違つて『五音』によつて終つてゐるので、『四分休符()』による餘韻が味はへる事は、納得出來るだらう。

 これらの意味でも『心理切れ』とは、『拍子(リズム)』よつて生じるものである事が諒解(りやうかい)されるだらうし、『拍子(リズム)』といふものが如何に大切であるか、以上の事がそれを證明してゐると思はれるのだが、俳諧や詩は、否、文章に携はつてゐるあらゆる人々は、それらの事を理論的に説明出來なくても、長年の經驗(けいけん)から膚(はだ)で敏感に把(つか)み取つて創作活動を行つてゐるのである。

 

 

   一九八八昭和六十三戊辰(つちのえたつ)年十一月二十一日





Ⅳ、發句(ほつく)拍子(リズム) A Hokku poetry rhythm theory
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