2012年8月14日火曜日

Hokku poetry " White autumn 發句集「白い秋」




發句集「白い秋
Hokku poetry " White autumn" 


山里は咲くにまかせて白い秋 不忍


2011年度の作品


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8月8日

   湧きあがる雲を背負ひて喰ふ西瓜 不忍

小學生の時から七月下旬から八月末までが夏休みだつたので、八月の初旬で「立秋」になつてゐても、感覺的に夏の氣分が殘つてしまつてゐる。
「花火」と共に「西瓜」は秋の季語である。


8月9日

   吹く風に青田波打つ初秋かな 不忍

残暑に參つてしまひさうな身體(からだ)を操つて店に出かける午後――いつもの道を通つて田を眺めてゐると、そこを通つて來る風が心地よかつた。
「青田」は夏の季語だが、かういふのもありかと思つてゐる。


8月10日

   ひぐらしや硯(すずり)の墨で見舞ふ文(ふみ) 不忍

病院に通ふやうになつてから文人墨客のやうになれたらと、兼好(1283-1359)法師に倣(なら)つて殘暑見舞などを認(したた)める。
夕暮に晩蝉(ひぐらし)を聞きながら……。


8月11日

   垂れこめる雲山にゐて秋(あき)白雨(はくう) 不忍

夕方の出勤の時、遠くの山に黒い雲が垂れこめて覆ひかぶさつてゐるのを見たと思つたら、雨が激しく降つてきた。
初案から「夕時雨」と改めたが元に戻した。黒と白の對比に魅かれたので。


8月13日

   朝露が穗となるみのりの證(あかし)なれ 不忍

朝の仕事歸りの途中、いつものやうに田の側を通ると、まだ青い稻の先に露が宿つてゐると妻に言はれて、近寄つて屈んで見たら、きらきらと命が煌(きらめ)いてゐるやうだつた。


8月13日

   ゆふぐれに鐘の音聞く墓參り 不忍

父が亡くなつて十年になんなんとする。
天竺川の堤防に墓があるので出かけると近くの正業寺から入相の鐘が聞えて來た。
まだ暑さは頂點(ピイク)を迎へてはゐないからか人が多かつた。
「墓參り」は秋の季語。
莫差特(モオツアルト(Mozart)1756-1791) 
『ピアノソナタ 第8番 イ短調 K.310 1楽章』 YAMAHA QY100




8月15日

   仰ぎみて生きたればこそ月清し 不忍

今宵は綺麗な滿月で、幾度も店の外へ出て眺めてしまつた。
この句は中句「生きたればこそ」の後に、知る事が出來たといふ「知る」といふ言葉を省いた句で、發句なればこその省略法である。


8月16日

   階と見まがふ雲やビルと月 不忍

昨日に續き今日も綺麗な月で、かすかに雲がかかつて月とビルの間をたなびいてゐた。
それが月への階段のやうに見えた。
かぐや姫ならぬ……王子にもなれはしない。
『階(きざはし)』と讀んで下さい。


8月16日

   送り火を間近に見たり闇の空 不忍

今年の始めに二度ほど金閣寺に出かけた時にお世話になつた石田珈琲さんに行き、「送り火」を見る絶好のポイントへ案内された。
生まれて初めての事だつた。




金閣寺(inkakuzi) 2011/1/27()
Air』艾里克(グリイグ・Grieg)





8月17日

   我が影を月に照らされ見る田舎 不忍

京都から三時間をかけて岡山の美作へ着く。
夜中の一時なり。
月は天空に美しくあり。
都會では考へられぬが如き月の明るさ。
我が影は地に張りつきたるなり。


8月18日

   気がつけば蝉の聲なき晝の風 不忍

あれほど朝方は鳴いてゐたのに、ひと眠りして十一時に目を覺ますと、照りつける太陽の中に蝉の聲はなく、風だけが通り拔けてゐた。
「晝」は「昼」の正字。


8月19日

   なきさうな蝉のかはりや曇り空 不忍

疲れてゐた所爲(せゐ)か、昨夜は十一時から朝の七時まで寢てしまつた。
なんだか雨が降りさうな空模様だ。
涼しくなるかな~。


8月20日

   樂しみがいまだにつづく百日紅 不忍

それほど華麗な花とはいへないが、六月の終り頃から今も咲き續けてうるほひを與(あた)へてくれてゐる。
地味である事が却つて靜謐な味はひがあるやうに思はれる。


8月21日

   花も人も景色溶け込む秋のあめ 不忍

昨日は車で店に行つたので、今日は雨が降つてゐるけれども健康の爲に歩いて行く事にした。
灰色の背景に全てが雨に閉ぢ込められたやうに見えた。


8月22日

   雲間より月の見透かす浮世かな 不忍

夜中の一時過ぎに氷を買ひに出ると、雨を孕んでゐさうな雲の脇から月が覗いてゐた。
折しも角の店で宴が酣で笑ひ聲が聞えて來た。
月見をしてゐる譯ではない。
もしかしたら月が人見をしてゐるのかも……。


8月21日

   降りもせぬ空の暗さや蟲の聲 不忍

夕暮れのどんよりと重い空を背負ひながら歩いてゐると、何處かで蟲の聲が聞えた。
その蟲の音に同じ生き物としてこの地球に存在してゐる事を實感させられた。


8月24日

   朝燒けのところどころに見ゆる秋 不忍

次第に朝の明けるのが遲くなつてきた。
彼方に一筋の赤い線が上がつて邉りを斑模様に明るくして行く。
こんな處に秋の氣配を感じてしまふ。


8月25日

   鳴ききつて蝉のこゑなき朝(あした)かな 不忍

氣がつくと蝉の鳴き聲がなくなつてゐる。
さういへば、しばらく音沙汰のないあの人はどうしてゐるのだらうかと思ひだしたりしてしまふ。


8月25日

   朝顏のからまる蔭にひるねかな 不忍

なんと「西瓜・花火」に竝んで朝顏も季語は秋である。
やはり夏の心象(イメエジ)が強く感じられる。


8月27日

   山蔭に陽當(ひあた)る朝の墓參り 不忍

昨日に行かなければならなかつたのだが、仕入れと精米するのに時間を取られて間に合はなかつたので、仕事を終へた歸りに墓參りをした。


   鳴き切つた蝉のぬけがら墓の外 不忍

蝉のやうに鳴き切つた一生を送る事が出來るのか。
不圖、考へてしまふ墓參り。

コンドルさん。
運動・藝術・食の秋ですね。
私には秋刀魚は佐藤春夫を思ひ浮べてしまひます。
   子に分ける秋刀魚酸つぱきレモンかな 不忍
面影で句作しました。


   ふと蝉のいつの間にやら聲もなし 不忍

家の窓から木々のそよぎが見えるだけで蝉の聲はなく、それ程に汗もかかなくなつて、しみじみと季節の變化を感じてしまふ。


8月29日

   秋に來て咲くとは知らず百日紅 不忍

この間の大雨で随分と地面に散つたのを見た筈なのに、秋になつてもまだ咲いてゐる。
健氣なり。


8月30日

   晩蝉のせいいつぱいにゆふべかな 不忍

夕方、店に行く道をかへて歩いてゐたら、もう聞かれないと思つてゐた蝉の聲に出合つた。
蝉の季語は夏だが、晩蝉(ひぐらし)は秋の季語である。


8月31日

   秋の夜や問ひ糺される雨の音 不忍

夜中に雨が降り出して客足が途絶えた。
獨り店で雨音を聞いてゐると、深く考へる事があつたが内觀とまではいかない。


9月2日

   竹の春雨を仰がん露天風呂 不忍

箕面船場にある「水春」に行つて來た。
昨日の事である。
颱風の所爲か生憎の天候で、灰色の空から雨が降り出して情緒がある事頻りであつた。
「竹の春」の季語は秋である。


9月3日

   台風の豫兆や深夜の雨宿り 不忍

晝間の激しい風も、夜中に風が止んで雨だけとなる。
颱風の直前で、尠いけれどもこんな日でも出向いて來られる人ありて歡談す。


9月4日

   降りしきる雨の重さや秋の夜 不忍

深夜の壓()しかかるやうな暗い空から、ざんざ降りの雨が長いこと續いてゐた。
路面を叩く音と激しく撥ね返る飛沫に魅入られてゐた。


9月5日

   止むとみてまた降りかかる雨や秋 不忍

九月上旬から十月中旬に秋雨前線が發生する。
南岸沿いに停滯すると長雨となり、颱風の影響で大雨となるが、これを秋霖といふ。


9月5日

   被災後の秋生き殘りしが罪とかや 不忍

東日本大震災のドキユメント映像はどんな言葉も輕く感じられてしまふ。
亡くなつた人を弔ふ氣持もさる事ながら、生き殘つた人の苦しさは、太平洋戰爭で歸還した兵士の戰友への思ひにも似てゐまいか。


9月6日

   まだ鳴くかひぐらし風雨生き延びて 不忍

この地域でこの季節になつてしまつたら、もう茅蜩(ひぐらし)の聲さへ聞かれはしないと思つてゐたら、店へ向ふ途中の道でいきなり鳴き出されて、生きてゐる事を實感させられたやうな氣がした。


9月7日

   氣にもせぬ空にゆうぜん晝の月 不忍

店に行く途中、まるで誰に氣づかれる事もないやうな月が、浅黄色の空にうつすらとあつた。
我が道を往くも心なれば、人の噂をとやかくするのも己が心ひとつの事にあり。

これは何の月ですか?
読み方がわからん~。
いや今晩の月の位置に異常はないようでした。
安心。

松丸 ブディウトモさん。
失禮。「晝」は「昼(ひる)」の正字です。
説明不足でした。
因みに今年は九月十二日が中秋の名月です。
それと十月九日」の十三夜の月を見ませう。
兩方を見ると「無雙(むさう)の月」で、どちらかを見ないと「片月見」となります。


9月6日

   路地裏の小暗き軒に槿かな 不忍

店へ歩いて行く時、公園を拔けたあと、眞直ぐ行くか右の道を選べる。
右は小さな用水路だが、水は涸れてゐので殺風景な道である。
多くは眞直ぐ行く細い民家の道を通る。
何故つて途中に槿(むくげ)が咲いてゐるから。

コンドル
何色の槿でしょうか。
個人的には純白で中央に赤みがあるのが好きです。

コンドルさん。
まさにそれでした。

   槿咲く生きていればこその出逢ひかな 不忍

いろいろあるでせうが、といふところです。


9月10日

   田の上の鳥よけ光る朝の道 不忍

朝方に家に歸る時、鳥よけネツトが田一面に張つてある。
鳥の姿が見えないのに網を張る必要があるのかと思ふのだが、張つてあるからこそ鳥が見えないのかも知れない。


9月10日

   泣く蝉がゐたともみえず木立かな 不忍

この間までこの道を通る時、この木立に蝉や蜩が鳴いてゐたのに、今はもう何事もなくひつそりとしてゐる。
命は次に繋がれたのだらう。

Kumi
時は流れ様々なことが変化して行きますね。
と、ちょっとセンチメンタルな私

Kumiさん。
日本文學の底流にあるものは、「もののあはれ」です。
儚い命なればこそ慈しむ心を必要とするのでせう。
この句は夏の季語である「蝉」がゐなくなつた事で夏の次の季節の到來を示したもので、實際の秋の季語に關する具體的なものは提示されてゐません。
こんな方法の句があつてもいいのではないか、と思つて發表しました。
幻惑的(トリツキイ・Tricky)な技ではありますが。


9月11日

   おだやかな陽射しゆかしき稲穂かな 不忍

雲をたなびかせた空から、やはらかな秋の陽射しをうけて、つひに稻穗が實(みの)つた。
多くの周りの景色を壓(あつ)して田圃が光つてゐる。


9月12日

   名月を池にあそばす今宵かな 不忍

遠景の山竝を借りて我がものとするやうに、木々の生茂る敷地三千坪にある池を眺めながら、今宵は名月を鯉とともに池に遊ばしておかう。
なんて「空想の句」、いや「妄想の句」か。
にしても綺麗な月である。





9月13日

   池に浮くいさよふ月や鯉の餌 不忍

敷地三千坪にある池、ゴホン、「妄想」も極まれり。
「いさよふ月」は「十六夜(いざよひ)の月」で、陰暦八月十六日の月の事である。
月は歸り道の夜明にもあつたので「有明の月」にもなつてゐた。


9月14日

   來ぬ人と立待月の出逢ひかな 不忍

夕方に月の出を待つてゐる時、坐る間もなく出る月の事を「立待月」と言ひ、「忽ち」と掛けたらしく思はれる。
待ち人とも直ぐに逢へる事だらう。
陰暦八月十七日の月をいふ。
皓皓と今宵の月も美しきかな。


9月15日

   己が顏を池に浮かべて居待月 不忍

敷地三千坪の池の妄想に遊べば、月の出遲くして、水面に浮ぶは貧相なる我が顏。
伊曾保に倣ひて「ワン」とでも吠えてみん。
「居待月」は陰暦八月十八日の月の事である。


9月16日

   降りやまぬ臥待月や眠られず 不忍

殘念乍ら今日は雨で月は見られない。
陰暦819日の月の事を「臥待(ふしまち)の月」あるいは「寝待ちの月」ともいふ。
月の出は遲い。これ以降はもうないやうに思はれるが、まだこの後もあつたりする。


9月17日

   しのぶ戀更待月や暈の中 不忍

折角の逢瀬も短くて、戀人たちは離れ難いだらう。
陰暦八月二十日の月を「更待(ふけまち)の月」といひ、月の出は次第に遲くなつて午後十時頃になると言はれてゐる。
生憎の曇り空で月は暈(かさ)がかかつてゐた。


9月18日

   月呑んで喉うるほさん缺け茶碗 不忍

月に樣々な名稱があるが、けふの月には取立ててない。
月は次第に缺()けて行くが不相變(あひかはらず)美しい。
見る癖がついてしまつた。
茶碗に月を映して飲み干すなんて趣向も面白からう。
技巧に走る。


9月19日

   草陰に邯鄲の鳴く朝の道 不忍

邯鄲は「一炊の夢」で有名な戰國時代の中國の趙の國都。
別に「盧生の夢」ともいひ、束の間に人生五十年の榮枯盛衰を夢に見て、出世にかける儚さを例へた故事。
その時この蟲が鳴いてゐたとかゐなかつたとか。

9月21日

   降つて止みくり返しす雨や秋の聲 不忍

雨が降り續いてゐるが、私は雨が好きである。
災害も惠みも人の意の儘にはならないが、自然には傲慢も感謝も教へられる。
秋にはそれなりの色々な音が聞えて來る。
この句、中句が八音の字餘りである。


9月22日

   誘はん晝間の空や萩の寺 不忍

曾根に『萩の寺』として有名な東光院がある。
この地に長い事住みながら一度も訪れた事がなかつた。
始めて家族で出かけた。
(ひる)だつたので、月があればと誘(いざな)つたが、萩に失禮だつたか……。

   陽の光かぜを教へん萩すすき 不忍

東光院には萩ばかりでなく、數は少ないが芒もあつて、如何にも月を期待してしまふが、開門時間は午前九時から午後五時までである。
「九仞の功を」虧()くこと夥しいが、贅澤といふものか。





9月23日

   山の上の墓に登れば彼岸花 不忍

妻の實家の墓は高臺にある。
見晴らしの良い場所に墓を建てたが、墓そのものは新しく、このあひだ亡くなつた妻の父親が鬼籍の人となつてこの中に一人でゐるばかりである。


9月24日

   秋櫻や風にまかせて搖れにけり 不忍

我慢してゐる譯でも、歎いてゐる譯でも、諦めた譯でもない。
秋櫻(コスモス)はその環境にひつそりとそよいでゐる。
可憐でさはやかなたたずまひを店に行く途中に見かけた。
忙中閑あり。
秋櫻は「キク科の一年草で、墨西哥(メキシコ)原産」だと辭書にありました。


9月26日

   月のない空の暗さや夜明け前 不忍

夜明け前が一番暗いと誰かが言つてゐたやうに思ふ。
そんな時は叫(Cry)んでみても屆かない、なんて下らない事を言つてみる。
日本の夜明けはまだ遠い。お前は鞍馬天狗か!


9月26日

   銀杏竝木色づき初むる七日ぶり 不忍

月曜日は毎週仕入れで、二十年程前に店を十年間營業してゐた吹田の亥子谷へ行きます。
一週間前はまだ汗ばむ程だつたのに、それがもう銀杏が黄ばみ初めて、見えもしない時の存在を教へてくれる。


9月27

   日の暮も釣瓶落としや秋冷えて 不忍

日の暮れが早くなつた。
「釣瓶落とし」といふ手垢のついた言葉だが、結構氣に入つてゐる。
これに到るまでにこんなのも詠んで見た。
   日の暮れて晒した皮膚に秋の冷え 不忍


9月28日

   浮雲を動かす風や黄金の穗 不忍

妻の實家の美作では、もう二週間も前に田の刈入れが終つてゐるのに、都會の田圃はまだ黄金(こがね)の稻穗が風に光つて搖らめいてゐる。


9月29日

   雲に飛ぶ鳥船ひとつ秋櫻 不忍

和歌は大和言葉を使ふのが本來で、確か飛行機の事を「天の鳥船」と詠まれた歌があつたやうに記憶してゐる。
青空の下、秋櫻の搖れる背後に飛行機が雲に向つて飛ぶやうに見えた。


9月30日

   友が語る友の孤獨死秋更けぬ 不忍

久し振りに友人が訪ねて來た。私の知らない彼の友人が死んだといふ。
隨分以前に離婚をしてゐて、年金も貰はぬ儘に五十九歳の若さで、何日も經つてから發見されたといふ。
酒を酌み交はす……。


10月1日

   鰯雲どこがくぎりや海の果 不忍

空を見るとどこまでも鰯雲が續いてゐた。
店に向ひながらその下を歩いてゐた。この雲は何處まで續いてゐるのだらうか。
きつと海の果てまでの追ひかけて行けさうだと、ふと思つた、秋。


10月2日

   空に殘る飛行機雲や秋の暮 不忍

空に飛行機雲が一筋殘つてゐた。飛行機の影は何處にも見えない。
飛行機でさへその軌跡を空に殘してゐる。
人生も終盤に來て自分は一體何を殘せただらうか。
何かを殘さなければならないといふ負擔を自らに課する譯でも、それが人生の目的でもないのだが、こんな事を考へるのも秋の所爲か。


10月2日

   夕月を追ひかけてみる暗き道 不忍

店に出かける時間は同じなのに肌寒くすつかり暗くなつてしまつた。
今日は夕月がとても綺麗な三日月で、まるでそれが目的ででもあつたかのやうに自轉車で追ひかけてしまつた。
人生も目的はあつた方が……。
當初は下五句が「秋の闇」だつたのですが、調べてみると「夕月」の季語が秋だと判つたので、かうなりました。
明日の月も愉しみです。


10月4日

   冴ゆる秋風に靡かす上つ張り 不忍

自轉車にて店に行かんとするも、すでにはや氣持良さから肌寒さに變りたるなり。
夕方なれど月は天空にあり。
半袖のTシヤツの上に外衣(ジヤケツト)を羽織て風を切れば、身の引締まる心地すなり。


10月5日

   秋雨ありて異國の人の訪れん 不忍

秋雨(しうう)の中、思ひがけなくも知人が若き蒙古(モンゴル)の大使の娘といふ女性と連立つて來た。
自國語は當然、露西亜語と英語を習得してゐて、樂しいひとときを過した。


10月5日

   降る雨や車過ぎ行く秋のおと 不忍

かすかに路面をたたく雨の音が聞えてゐるが、時々雨をはねる自動車が通り過ぎる音がそれに加はつて、冷たい風が店の中に入つて來る。


10月6日

   陽と風に守られて咲く秋櫻 不忍

今日は休みなので、亀岡の『夢コスモス園』に行つて來ました。
全部で800萬本あるさうですが、三百萬本ぐらゐが咲いてゐて、しかも昨日の雨が嘘のやうに晴れたので、氣持が良かつたです。





   コスモスや野に一面の色の搖れ 不忍 

龜岡にある『夢コスモス園』にて詠める句なれば、遠きに山をいただいて風を感ずるを喚起させ得れば諒とせんか。





   山越えてコスモス風の里の奧 不忍

龜岡にコスモスの里あり。いつの日より人の口端に上らんか。その昔訪れたる事あるはこの地なるか詳らかならず。





   山里は咲くにまかせて白い秋 不忍

この句は先週に龜岡へコスモスを見に行つた時のものですが、これがこの秋の句を纏めた時の題名になるので、なんとしても發表しておかなければならないのです。




   コスモスや色をふりまく風の里 不忍


10月6日

   酒のうたげ食後の柿はもらひ物 不忍

京都・亀岡の『夢コスモス園』から歸つて家族で宴會だ! 
「あなたが聞きたい歌の四時間スペシヤル」といふテレビを見ながら飲めや歌へや大賑はひ! 
秋の夜長を滿喫だ。


10月8日

   刈取らぬ稻穗に落つる秋の暮 不忍

いつも通つてゐる變電所の横の田圃の稻が未だに刈取られてゐない。
秋の夕暮はあつといふ間に暗くなつてしまつて、他所ごと乍ら心配をしてしまふのである。


10月9日

   上は見ても振返らざる後の月 不忍

十五夜の名月の時に十三夜(後の月)を見ないと片見月になると述べた。
十五夜を芋名月といふのに對して十三夜を栗名月といふとものの本にある。
無事に晴れて觀賞する事が出來た。
過去を悔いても詮なき事。





10月10日

   木に群れてとまる雀や假の宿 不忍

一休禪師(1394-1481)ではないが、この世はなべて假(かり)の宿であるから杓子定規に口喧しく言はなくても構はないのではないか。
囚はれぬ心もて日々を過されればと願ふばかりなり。


10月11日

   穫りいれて空にひろがる田圃かな 不忍

氣になつてゐた稻穂が到頭、刈取られた。
田圃の少なくなつた都會は固(もと)より田舎でも今は機械化が進んで、稻架(はぜ)の稻かけなども見かけなくなつてしまつて田園風景も樣變りしてしまつた。


10月15日

   野分して殘る風鈴ひびく夜 不忍 

降り續いた雨は上がつたものの、店先に年中吊るしてある風鈴が強い風に震へてゐる。
季節外れとは言へその音は涼やかで、秋といふのにこの暑さをやはらげてくれる。


10月15日

   秋雨や不如意なりしか友來たる 不忍 

活計(くらし)にくき昨今なれば、思ひあまりて訪ね来らんか。
はや今年の三月(みつき)もなかりせば、普段の生活を取戻さんと願ふなり。
雨降りて秋いよいよ深まりぬ。


10月16日

   練り歩く果ては空まで秋祭り 不忍 

庄内神社の秋祭りが始まり、神輿が町を巡行するのを撮影する爲に隨行して來ました。
このやうな行事に參加するのは初めてだつたので、地域それぞれに工夫された神輿を見るのも樂しかつたです。


   秋晴れて神輿あつまる鎭守かな 不忍 

昨日の叩きつけるやうな雨が嘘のやうに晴れた。
今日は秋祭り! 
神輿がそれぞれの地域から練りに出る前に、先づ挨拶の宮入りをする。
神域で禊ぎを濟ませてから地元へと戻つて練り歩く事になる。





10月17日

   熱く響くワツシヨイ秋に舞ふ神輿 不忍 

この句、當初(たうしよ)「ワツシヨイの熱き響きに舞ふ神輿」と詠めど、「神輿」は夏の季語なればかく改めたり。かくて「中折れ」の句とはなりぬ。


   突上げる神輿 酣 躍る秋 不忍 

最後の宮入りで神輿が練りを繰擴げ、祭りも 酣(たけなは)となつて樟(くすのき)の枝に屆けとばかりに神輿が舞ひ上がる。
それに合せて見物客の觀聲が神社に充滿する。






   樟や神輿めぐらす秋の宮 不忍 

神社には大抵、大きな樟(くすのき)が植ゑられてある。
秋祭りの神輿が各地域から宮入りで境内に入つて、それぞれが思ひ思ひの勇壮な練りを繰廣げる。
樟は何百年とそれを見守つてゐる。まさに鎭守なり。
※この句を映像の中に入れるのを忘れてゐました。





10月18日

   行く道を問ひかねたまま秋の暮 不忍 
人は自らの進む道をどのやうにして決めてゐるのだらう。
人に決定して貰へば人の所爲(せゐ)にして濟む譯のものではない。
何故なら、失敗すれば直ちに自分にはね返つて來るだけなのだから。


   弓張りの月や過ぎゆく神無月 不忍 

神無月は十月の事で現在は秋の季語だが、陰暦では冬の季語になる。
時の流れが速く感ぜられるのは年を取つた證據(しようこ)なのだらう。
何かをしたといふ充實感はない。
かくてけふも暮れ行く。


10月22日

   めぐる秋君が育ちし在所かな 不忍 

我が妻の故郷、美作に來るやうになつてどれ程にならうか。
義兄が跡を繼ぐやうになつても里歸りしてゐる。
この地が氣に入つてゐるのは妻の里だから。
して見れば、人類の故郷、地球を愛さない譯には……。


10月22日

   秋は深く明りはいづこ雨の道 不忍 

人は何かを求めなければ生きて行けない存在なのかも知れない。
食が不自由なればそれを求め、それが得られればそれからそれへと食指を動かし、戒めに食足るを感謝せよと、感謝をさへ求めてしまふ。


10月23日

   挨拶が枝豆となる酒の當 不忍 

墓參りで花を供へてゐる時、嫁いでゐる娘から電話があつた。
丹波の友人の處(ところ)で枝豆を貰つたので屆けるといふ。
今墓にゐるといふと直ぐに車で來た。
早速、夕食に酒の當(あて)となる。
知人の知人は友達!


10月25日

   耳鳴りやぽつんと住まふ秋の部屋 不忍 

吹田から豊中に店を移つて二十年に垂(なんなん)とする。
當初からの常連で連合(つれあ)ひを亡くした居酒屋のママがゐて、一人で住む侘しさを酒の肴にして語つてゐる。
いづれにかわが身に移らん歟()


10月25日

   待ち望むものあれど秋は暮れて行く 不忍 

理想とするものはあまりに遠く、世の充足よりも個の滿足に終始したる社會の續きたるに、心のもやもやが「中八句」の字餘りとなつて表出してしまつた。


10月26日

   吹きとばす雲の行方や秋の果 不忍 

木枯し一號が吹いたといふ。昨日まで半袖で過せる程の気候だつたのに、夕方に店へ行く時、いつもの服装で自轉車に乘つたら、とてもではないが寒くて堪らなかつた。
漸く温度が季節に追ひついて來たやうだ。


10月28日

   晴れ渡る空に雲なく月もなし 不忍 

暑さが戻るといふ。夏の復活。不死身の夏。
(タイ)の洪水、殺人、自然現象と人的被害により世界は日々事件の山なれど、竝()べてこの世はこともなしとばかりに過ぎて行くのみ。


10月29日

   妻の作るドリアの中に栗の味 不忍 

朝食に冷凍ご飯があつたのでドリアにしたと妻が言つた。
中に隱れてゐるものがあるといふ。
何かと食べながら探してゐると、ほつこりとした栗が口の中にあつた。
秋を見つけたやうな感じ。


10月27日

   秋晴れて露天や風に竹さやぐ 不忍 

萬博の「おゆば」に行つて來ました。
蒸し風呂(サウナ)も鹽(しほ)サウナも勿論いいが、誰が何て言つたつて露天風呂である。
混浴は嫌ひではないが、人間が出來てゐない所為か落着かないので敬遠してしまふ。


10月30日

   重ね着も身に沁む秋の日暮かな 不忍 

この日は大阪音大の學園祭で二年續けて生憎の雨である。卒業して何年にもなるのに長男が毎年呼ばれて演奏してゐる。
昨日も出かけたが雨は降つてゐなかつた。
今日は肌寒く感じられた。


10月31日

   たそがれはとくにゆゑなく秋惜しむ 不忍 

いつの間にやら時は過ぎ、何十度目の秋を送つたのだらうか。
あとどれ程の秋を迎へられるのだらうか。
ゆゑなくと言つたが、さう考へる事がゆゑなのかも知れない。


11月1日

   暮れ暮れて木々細長き道の秋 不忍 

いよいよ秋も暮れなんとする。
個の欲望を滿たさんと生き續けてきたれど、爲()された事の餘りに少なく、といふよりも眞實(しんじつ)爲すべきものは本當は多くはないのではなからうか。


11月2日

   冬未き怺へかねたる銀杏かな 不忍 

氣候は天變として準備も整はず、冬は未(いま)だ暦通りに近いとは言へない。
けれども、南千里の銀杏竝木のいくつかは怺(こら)へ切れずに葉を落してゐた。
「冬未(まだ)き」であるのに……。


11月3日

   いにしへの袍の染み見ん秋日和 不忍 

正倉院展に行つて來ました。これで二度目になります。
出かける時は店が休みの木曜日なので空いてゐるのですが、今囘は祭日で大變でした。
誰が著てゐたのかと袍(ほう)の保存の良さに思ひを馳せてしまふ。

   身じろがぬ鹿におどろく池泉かな 不忍 

奈良の鹿は人に馴れてゐて悠然と邉りに溶け込んでゐる。
煎餅に腹も滿ちたのか、彫像のやうに寝そべつて動かない。
池の噴水を見に近づいて暫くすると、木蔭に鹿がゐると人に言はれて氣がつく程である。





11月5日

   人なくて公園の雨や秋暮れぬ 不忍 

本來はひと雨ごとに寒くならねばならなないのに、暦の上の秋だけが暮れて行き、體感や感情が置去りにされてゐるやうな違和感が殘つてしまふ。
ただ雨の公園に人影がない事だけが晩秋を教へてくれてゐるやうだ。


11月6日

   雲赤く暮れなずむ空秋いづこ 不忍 

店に行く途中に小雨が降つてゐるにも拘はらず、半袖でも寒くない。
もう立冬だといふのに、まだ秋を捜しに行かねばならないやうな氣になつてしまふ。



また一つの季節が行つてしまつた。これまで幾度の秋を數へたのだらうか。さう考へさせる折節も移り變り、嚴しき冬を迎へる。
いざ發句せん!

     二〇一一年11月三日午前一時十五分



     關聯作品


一日一句の發句集『朱い夏(Zhu summer)
http://ahuminosinobazu.blogspot.jp/2012/05/zhu-summermixitwitter.html