2012年2月1日水曜日

Ⅰ.發句(ほつく)拍子(リズム)論 A Hokku poetry rhythm theory

發句(ほつく)拍子(リズム)

A Hokku poetry rhythm theory





前  書



兼ねてより、筆者は發句の三要素を解明したいと願つてゐた。

 曰(いは)く、發句の三要素とは、

『五七五の十七文字・季語・切字』

の事であるが、これらの總(すべ)ては一應(いちおう)完成されてゐて、後は發表するだけになつてゐる。
けれども、『季語・切字』に就いては、『Ⅹ6800』といふ古いパソコンにデエタアが入つてゐて、そのパソコンが作動せず、それを取出せなくなつてしなつたので、取敢(とりあ)へず『發句拍子論』を發表する事にする。


『發句拍子論』は全部で十章もあり、一氣には發表出來ないので、順次、一章づつ小出しにする事にする。
發表するに當つて氣になるのは、淺學の身で識者のお叱りを受けるのも顧みず、ただ偏(ひとへ)に、この道半ばの學徒の人に誤つた情報を與へなくて濟めば、と思ふ事ばかりである。

 

 

さて、この作品を發表するに當(あた)り、註意を促(うなが)しておきたい事がある。

歴史的假名遣と正字を利用する者にとつて、電腦(コンピユウタア)の日本語表記は、極めて不便な使い勝手の惡いものである。

「辶(之繞=しんわう)の點(てん)が、『()()』のやうにあつたりなかつたりで、他に『()()』に點がなかつたりと、眞(まこと)に困りものである。

それは問はないにしても、この作品では特に音符を使ひたいのだが、使用出來るのは『(♪)()()』の、この三種類しかなく、後は環境依存文字の『()』といふのがあるばかりで、休符さへもない始末である。

 

 

多くの人に發表しようとすれば、「文字化け」を考慮して、他の記號(きがう)で代用するしか、手がないやうに思はれる。

 

 

そこで、八分音符『』はそのままで良いとして、環境依存文字の、

 

『四分音符()』=『

 

を代用するとし、

 

『四分休符』=『ζ(ツィータ)


は好く似てゐる希臘(ギリシア)語、

 

『八分休符』=『γ(ガンマ)

 

を、それぞれ代はりとして利用したいと思ふ。


 

 二〇〇九年十一月二十八日 午前二時頃




 §

 

 目  次

 


發句の『拍子』に就いて………………………………………

言葉の『拍子』に就いて………………………………………

  一、音符に就いて…………………………………………

  二、それぞれの『拍子』に就いて………………………

  三、『四分四拍子』に於ける音符と『拍子』に就いて

  四、音節の『拍子』に就いて……………………………

  五、一音節の『拍子』に就いて………………………

  六、二音節の『拍子』に就いて………………………

  七、三音節の『拍子』に就いて………………………

  八、四音節の『拍子』に就いて………………………

『五音』『七音』の音節の組合せに就いて………………

  一、『五音』の音節に就いて…………………………

  二、『七音』の音節に就いて……………………………

『十七文字』による『拍子』に就いて………………………

  一、定型の『十七文字』に就いて………………………

  二、『中句切れ』による『十七文字』に就いて………

  三、『破調』による『十七文字』に就いて…………

  四、『十七文字』の組合せに就いて…………………

第五章 『字足らず』の『拍子』に就いて…………………

  一、四文字の『字足らず』の『拍子』に就いて……

  二、九文字の『字足らず』の『拍子』に就いて……

  三、十文字の『字足らず』の『拍子』に就いて……

  四、十一文字の『字足らず』の『拍子』に就いて…

  五、十二文字の『字足らず』の『拍子』に就いて…

  六、十三文字の『字足らず』の『拍子』に就いて…

  七、十四文字の『字足らず』の『拍子』に就いて…

  八、十五文字の『字足らず』の『拍子』に就いて…

  九、十六文字の『字足らず』の『拍子』に就いて…

  十、『字足らず』の『拍子』の限度に就いて………

『字餘り』の『拍子』に就いて…………………………

  一、上句六文字の『字餘り』に就いて……………

  二、上句七文字の『字餘り』に就いて……………

  三、上句八文字の『字餘り』に就いて……………

  四、上句九文字の『字餘り』に就いて……………

  五、上句十文字の『字餘り』に就いて……………

  六、中句八文字の『字餘り』に就いて……………

  七、中句九文字の『字餘り』に就いて……………

  八、中句十文字の『字餘り』に就いて……………

  九、中句十一文字以上の『字餘り』に就いて……

  十、下句六文字の『字餘り』に就いて……………

  十一、下句七文字以上の『字餘り』に就いて………

  十二、上句六文字と中句八文字の『字餘り』に就いて

  十三、上句六文字と中句十文字の『字餘り』に就いて

  十四、上句八文字と中句八文字の『字餘り』に就いて

  十五、上句九文字と中句八文字の『字餘り』に就いて

  十六、上句六文字と下句六文字の『字餘り』に就いて

  十七、上句六文字と下句八文字の『字餘り』に就いて

  十八、上句七文字と下句六文字の『字餘り』に就いて

  十九、上句七文字と下句七文字の『字餘り』に就いて

  二十、上句七文字と下句八文字の『字餘り』に就いて

  二十一、上句八文字と下句六文字の『字餘り』に就いて

  二十二、『自由律俳句』の破格の『拍子』に就いて…

  二十三、全句に於ける『字餘り』の『拍子』に就いて

『心理切れ』の『拍子』に就いて………………………

定型詩と自由詩に就いて…………………………………

  一、定型詩に就いて…………………………………

  二、自由詩に就いて…………………………………

詩の音楽性といふ事に就いて……………………………

  一、旋律に就いて……………………………………

  二、和聲に就いて……………………………………

總 論………………………………………………………

一、形式に就いて……………………………………

  二、發句に定義に就いて……………………………

參考文獻及び追記…………………………………………






§




第一章 發句の拍子に就いて


 

 俳諧師(はいかいし)の詠んだ詩句(しく)が總て發句(ほつく)かといふと、さうとばかりは言へない。又、

 

 「これは發句だ」

 

 と思つて作つた句が發句かといふと、さうとばかりも言へない。


 發句は、言葉の音數さへあればそれで良いのではなく、それが發句である爲には、發句らしい『拍子(リズム)』があつて、いくら『季語・切字』を有した『十七文字』であつても、その『拍子』を無視すれば、發句とは言へないのである。

 何故なら、『拍子』はどのやうな詩歌にも、いや、言葉といふものには、基本的に何處の國の言葉でも、自づとそのやうな性質を具へてゐるから()ある

 例へば、伊太利(イタリア)映畫(えいぐわ)の會話(くわいわ)を聞いてゐると、



タタタ タンタ タタタ タンタ タタタ タタタ タンタ タンタ

♪♪♪()  † ♪ ♪♪♪()  † ♪|♪♪♪() ♪♪♪()  † ♪  † ♪|

 

 このやうに、ジイグ或いはタランテラ(三連符=♪♪♪=†)の『拍子』で喋つてゐるし、佛蘭西(フランス)の映畫の會話でも、


    タタンタンタンタ タタンタンタンタ
C♪ † † † ♪|♪ † † † ♪|


こんな風に、切分音(シンコペエシヨン)に乘せて喋つてゐるやうで、流石(さすが)にジャズが盛んな國であると言へるやうに、民族にはそれぞれの風土や習慣に『拍子』があると思はれる。

 さうして、何故民族によつて言語や『拍子』に違ひが起きるのかといふと、一概には言へないが、恐らく所有(あらゆる)環境の違ひによつて、例へば寒い地域などでは口を開けて喋られないが、逆に、餘(あま)りに熱い地方でも口を開けて喋られないだらうから、同じやうな言語になると思はれるかも知れないが、寒さと熱さとでは、寒さだと體温(たいをん)が逃げないやうにする爲であり、熱い場合は體を上昇させない爲に、それぞれ筋肉の弛緩(しかん)の違ひによつて發せられる音聲の差となり、勿論、これ以外の原因はあつただらうが、これらの理由によつても、『拍子』の違ふ民族の音樂になつたのではあるまいか。

では、發句の『拍子』とはどのやうなものであるかといふと、一般に西洋音樂的な『拍子』があるのは短歌までで、發句には『拍子』がないと言はれてゐるのだが、それはとんでもない話で、先に述べたやうに、話し言葉に於いてさへ『拍子』はあるのであるから、發句のやうに短い詩句と雖(いへども)も『拍子』は立派にあつて、それがどのやうな『拍子』であるかといふと、先づ『四分の四拍子』であるといふ事であり、『拍子』の變化(へんくわ)はないものの、小節の方が例外的に「四小節になる時もあるが、基本は『三小節』であるといふ事である。

その定型を示せば、


    タタタタタン  ンタタタタタタタ タタタタタン

♪♪♪♪ † ζ|γ♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪ † ζ|

 

 といふ音型と、

 

    タタタタタン  タタタタタタタン タタタタタン

♪♪♪♪ † ζ|♪♪♪♪♪♪ † ♪♪♪♪ † ζ|

 

 この二種類が多くの發句の『拍子(リズム)』の代表と考へられるが、この考へは思ひつきではなく、發句を詠む時の心理的な律動と、發音する時の呼吸に關係があると思はれるし、第一、發句の『五七五』の『十七文字』が、何故決定的な形式として定着し得ないのか、詰り、どうして『字足らず』や『字餘り』といふ破調(はてう)があり得るのかといふ問題を答へる時、それは發句が、西洋でいふ所の『四分の四拍子』の『三小節』で成り立つてゐる形式だからだ、といふ外はないからである。

 發句が四拍子だといふのは、不思議に思はれるかも知れないが、日本人の民族的拍子といふものがあるとすれば、三拍子よりも、二拍子や四拍子の方が、體質(たいしつ)に合つてゐるやうである。

 俗に三拍子といふ『拍子』は騎馬民族の拍子で、二拍子や四拍子は農耕民族の拍子であるといふ説があるのだが、それを信用するならば、差詰め『四分五拍子』は、騎馬民族と農耕民族の混淆(こんかう)の産物と言へるのかも知れないだらう。

 古代の日本民族が、果して農耕民族であつたか騎馬民族であつたかは、作者には斷定すべき材料もないのだが、三拍子といふ『拍子』は、ある意味では一小節を圓舞曲(ワルツ)のやうに一拍と考へる事が出來るので、それが『八分三拍子』だと假定(かてい)して、

 

   タタタ       タンタンタン

3|8♪♪♪| = 3|4   

 

 このやうに、『八分音符()』が三つ(♪♪♪)で一小節となり、その三つの八分音符を一組にして一拍と數へるものを、音樂用語で『三連符(♪♪♪=†)』といふのだが、さう考へてみると、

 

   タタタ タン

1|4♪♪♪

 

 かくして『四分の一拍子』といふ事になり、これを發展させると、

 

   タタタ タタタ       タンタン

2|4♪♪♪ ♪♪♪| = 2|4  

 

 といふ二拍子の音型は、

 

   タタタ タタタ

6|8♪♪♪ ♪♪♪

 

 この音型と同じ事になり、更に『四分の四拍子』と『八分の十二拍子』も、その延長線上にある事も分かるだらう。その意味では騎馬民族や農耕民族の違ひも怪しいものである。

 大方、乘馬で緩(ゆつく)り走る場合には、三拍子の『拍子』を心得として乘つてゐて、それが短絡的に騎馬民族は三拍子といふ考へに辿り着いたのであらうが、それでは早く走つた時も三拍子かといふと、さうではなく、二拍子か四拍子になつてゐる筈である。

 一體(いつたい)、緩りした動作といふものは、三拍子でも充分に『拍子』を合せる事が出來るもので、それは何も乘馬に限つた事ではない。農作業でも一向に構はないだらう。しかし、その作業が『拍子』に乘つて、自然に早い動作になつた時、二拍子や四拍子に移行して行くのは、何の不思議もない事である。

 作者としては、『發句』が『四拍子』である事よりも、それが『三小』しかないといふ事の方が驚きである。

 何故なら、西洋音樂の樂典では四小節を一つの單位として『樂節(がくせつ)』といふからで、それが一小節不足して『三小節』しかないのは、如何にも破調だと思はれるからである。

 尤も、それは作者が西洋音樂の智識から、それを眺めてゐるといふ事も、大きな原因の一つであらう。

 因みに、發句の元祖である『短歌』でも當然『四拍子』で、發句と違つてゐるのは、短歌の方が十四文字多い分だけ『小節』も增え、全部で『五小節』になつてゐる。

 それを喜撰法師の歌で示せば、

 

 

♪♪♪♪†ζ|♪♪♪♪♪♪†♪♪♪♪†ζ|

    わがいほは  みやこのたつみ しかぞすむ

        わが 庵 は   都 のたつみ しかぞすむ

 

               ♪♪♪♪♪♪†|γ♪♪♪♪♪♪

              よをうぢやまと  ひとはいふなり

                           世をうぢ 山 と   人 はいふなり

 

 となつて、これも西洋音樂の形式から見ると、四小節を『一樂節』とすれば「一小節」多くなつてゐるのだから、張矢り破調と言へるだらう。

 さう言へば、日本の『拍子』といふものの捉へ方も、西洋音樂から見ると、非常に可笑(をか)しい。

 例へば、日本にいつからあつたのか知らないが、『三三七拍子』といふもの(・・)があるが、あれは、

 

 タンタンタン  タンタンタン  タンタンタンタン タンタンタン

  ζ|   ζ|      ζ|

 

 といふやうに、『四分の四拍子』の『四小節』よりなつてゐて、立派に『一樂節(いちがくせつ)』である事を示してゐる。

 決して、手で、三囘、三囘、七囘を、

 

  タンタンタン タンタンタン   タンタンタンタンタンタンタン

3|4     4|7       

 

 このやうに、休まずに續けて手を叩くといふ、複雜な『拍子(リズム)』ではない。唯、東洋に西洋風な音樂の表記法がなかつたといふに過ぎないし、それは恥でもなんでもない事である。

 

 

一九八七昭和六十二丁卯年六月十日



§

 

第二章 言葉の『拍子(リズム)』に就いて

 



 發句(ほつく)に於いて、『五七五』といふ音調は、

 

 タンタンタンタンタン

5|4     |7|4††††|5|4†††††

 

 このやうな、五拍子、七拍子、五拍子といふ『拍子』などではなく、

 

 タタタタタン  タタタタタタタン タタタタタン

♪♪♪♪ † ζ|♪♪♪♪♪♪ † ♪♪♪♪ † ζ|

 

 タタタタタン  ンタタタタタタタ タタタタタン

♪♪♪♪ † ζ|γ♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪ † ζ|

 

 先にも述べた通り、このやうに『四分の四拍子()』の『三小節』から成立して居るのである(・・)

 

一、音符に就いて

 

それをこれから探つて行く前に、先づ日本語の言葉の『拍子』から説明しようと思ふが、音符についての理解も若干は必要かと思はれるので、ここでこの書物で使はれる音符についての智識があると便利なので、紹介しておく事にする

 

†・=附點四分音符で(タアン)と拍子を取る。

†=四分音符で(タン)と拍子を取る。

ζ=四分休符で(トン)と拍子を取るが、實際には音は出ない。

=八分音符で()と拍子を取る。

γ=八分休符で()と拍子を取るが、實際には音は出ない。

 

 この外にも、「全音符」や「二分音符」、「十六分音符」や「三十二分音符」等がまだまだあり、當然「附點四分休符」や「附點八分休符」があるやうに、同じ音符の數だけ休符もあるのだが、本書は音樂を勉強する爲に書かれたものではないし、今囘述べる事には必要とはしないので、總てを紹介しないが、但し、これ以外の音符で述べなければならない事があれば、必要に應じて説明したいと思ふ。

 

二、それぞれの『拍子』に就いて

 

 それでは、以上述べた事を基本にして、更に先へ進むと、各種の『拍子』に就いて説明したいと思ふが、音符は一小節だけ提示するに止めておく。

 

 先づ、一つ目、

 

   タン

1|4

 

 『1|4』は『四分一拍子』と言ひ、これは第一音だけで、『四分音符(†)』の場合だと一拍目の強音だけの調子となる。

 

 二つ目、

 

   タンタン

2|4  

 

 『2|4』は『四分二拍子』と言ひ、これは二拍あつて、『四分音符(†)』の場合だと『強音・弱音』となる。

 

 三つ目、

 

   タンタンタン

3|4   

 

 『3|4』は『四分三拍子』と言ひ、これは三拍あつて、『四分音符(†)』の場合だと、『強音・弱音・弱音』となる。

 

 四つ目、

 

 タンタンタンタン

   

 

 『C』は『四分四拍子』と言ひ、これは四拍あつて、『四分音符(†)』の場合だと、『強音・弱音・中強音・弱音』といふ調子を取る。

 

 五つ目、

 

   タンタンタン タンタン

5|4      

 

   タンタン タンタンタン

5|4      

 

 『5|4』は『四分五拍子』と言ひ、これは三拍と二拍か、二拍と三拍の複合拍子で、『四分音符(†)』の場合だと、『強音・弱音・弱音・中強音・弱音』か、或いは『強音・弱音・中強音・弱音・弱音』の二つの場合がある。

 

 六つ目、

 

   タタタ

3|8♪♪♪

 

 『3|8』は『八分三拍子』と言ひ、三拍は『八分音符(♪)』の場合だと、『強音・弱音・弱音』となり、これは『四分音符(†)』の時と同じ事である。

 

 七つ目、

 

   タタタ タタタ

6|8♪♪♪ ♪♪♪

 

 『6|8』は『八分六拍子』と言ひ、六拍は『八分音符(♪)』の場合だと、『強音・弱音・弱音、中強音・弱音・弱音』となり、これは『四分音符(†)』の時でも

 

   タンタンタン タンタンタン

6|4       

 

と同じ「拍子」であり、のみならず、『八分音符(♪)』を三つで『四分音符(†)』一拍とする『三連符(()♪=†)』だと考へれば、

 

   タタタ タタタ

6|8♪♪♪ ♪♪♪

 

   タタタ タタタ

2|4♪♪♪ ♪♪♪

 

 このやうに、『八分六拍子』と『四分二拍子』は相通ずる『拍子』だと言へるだらう。

 

 八つ目

 

    タタタ タタタ タタタ タタタ

12|8♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪

 

 『12|8』は『八分十二拍子』と言ひ、『八分音符(♪)』の場合だと、『強音・弱音・弱音・弱強音・弱音・弱音・中強音・弱音・弱音・弱強音・弱音・弱音』となり、

 

    タタタ タタタ タタタ タタタ

12|8♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪

 

 タタタ タタタ タタタ タタタ

♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪

 

 これは『八分三拍子』の時と同じやうに、『八分音符(♪)』が三つで『一拍(†)』の『三連符(♪♪♪)』と考へると、『四分四拍子』と類した『拍子』である事は、理解出來るものと思はれる。

 猶、『四分七拍子』や、變つた所では「『十六分二拍子』や『八分二拍子』とか『四分三箇二分一拍子』(私の音樂談議 芥川也寸志著)」などといふ『拍子』もあるのだが、ここでは關係がないので説明を避ける事にする。

 

三、『四分の四拍子』に於ける音符と『拍子』に就いて

 

 さて、話を元に戻すと、

 

†(タン)

 

 これは『四分音符(†)』で、『四分四拍子()』とは、この『四分音符(†)』を一拍として、それが一小節に四拍ある事を示し、それが次の圖()のやうになるといふ事も、既に説明した通りで()る。

 

 タンタンタンタン

   

 

 しかし、當然、この音型ばかりが『四分四拍子』の總てではなく、『四分音符(†)』は『八分音符(♪)』が二つある場合と同じ音の長さで、いづれも同じ『一拍』の長さと等しいのである。

 

   タタ

(♪♪)

 

 また、『附點四分音符(†・)』は、『四分音符(†)』と『八分音符(♪)』を併せた音か、『八分音符(♪)』三つと同じ長さで、

 

タアン タン タ  タ タ タ

†・=(†♪)(♪♪)

 

 この『附點四分音符(†・)』は、次に『八分音符(♪)』が來る事が殆どで、それと併せると『四分音符(†)』二つ(††)の二拍になり、それは『八分音符(♪)』四つ(♪♪♪♪)の二拍の場合と同じ長さになる。

 

  タアン タ タン タン タタタタ

†・+(††)(♪♪♪♪)

 

 休符に就いては、『四分休符(ζ)』と『八分休符(γ)』とがあつて、

 

ζ=

γ=

 

 『四分休符(ζ)』は『四分音符(†)』同じ音の長さで、『八分休符(γ)』は『八分音符(♪)』と同じ音の長さであるが、休符記號の場合は實際には無音状態で、息繼ぎをしてゐると考へれば理解し易いだらう。

 『四分の四拍子=()』はこれらの組合せで、一小節に『四分音符(†)』が四拍あるのと同じ音の長さであれば良いのである。

 それを次に示せば、

 

 タンタンタンタン

   † †

 

 タンタタ タンタン

† ♪♪   

 

 タンタタ タンタタ

† ♪♪  † ♪♪

 

 タンタタ タタタン

† ♪♪ ♪♪ †

 

    タンタタ タタタタ

† ♪♪ ♪♪♪♪

 

 タタタン タタタン

♪♪ †  ♪♪ †

 

 タタタタ タタタン

♪♪♪♪ ♪♪ †

 

 タタタタ タタタタ

♪♪♪♪ ♪♪♪♪

 

 まだまだ考へられるが、これに『休符記號(ζ・γ)』も加へると大變な數になるのだが、發句に必要とされる範圍を逸脱してしまふので、これぐらゐで諒解して戴く事にする。

 

四、音節の『拍子』に就いて

 

 さて本題に戻れば、發せられた言葉に拍子があるのは當然と言へるが、日本の言葉は「一音節」から「三音節」までが多く、稀に「四音節」もあつて、「五音節」となると、「一音節」や「二音節」や『三音節』の言葉との複合であると思つても、先づ間違ひはないと言へるだら()

 それらの言葉を遣つて、『十七文字』より成立する、『五七五』といふ音調の發句を創作しやうとするのであるから、各種の音節を『拍子』に置き換へてみる必要がある。

 

五、一音節の『拍子』に就いて

 

 では、先づ各音節の『拍子』に就いて述べる事にする。

 「一音節」は、それだけでは發句の一部にしかならず、一音の名詞の場合とか助詞や助動詞につけられて、「二音節」や「三音節」や「四音節」の働きをする。

 例へば『手』といふ名詞は、助詞の「てにをは」や「から」がつく事によつて「二音節」や「三音節」になるやうに、助詞も「一音節」の中に含む事も出來るが、但し、發句獨自の『切字』といふものがあつて、例へば『や』といふ「一音節」は、『四分音符(†)』一拍を與へる事があり、また『八分音符(♪)』を與へてしまつたとしても、『休符延長』といふ記號をつける氣分が必要である。

 この『休符延長』といふ記號は、詩歌に於いては大變重要な役割を擔ふものと思はれる。

 

六、二音節の『拍子』に就いて

 

 次に『二音節」は、その殆どが『四分音符(†)』一拍と考へられ、特に長音や促音や拗音や撥音の時には、

 

      ンタタンタン

3|4γ♪ †  †

おかあさん

お 母 さん

 

   タン タタ

2|4†   ♪♪

かつ たよ

買つ たよ

 

   タン

1|4  |

   きやく

    客

 

   タンタタ

2|4 † ♪♪

しんじる

 信 じる

 

 以上のやうに、『八分音符(♪)』を二つ與へる一拍よりも、『四分音符(†)』を一拍と考へた方が、より自然である。

 しかし、同じ「二音節」でも、それ以外の場合には、

 

   タタ

1|4♪♪

       そら

       空

 

   タタ

1|4♪♪

       うみ

       海

 

 のやうに『八分音符(♪)』を二つに分ける事が出來るが、上下五句の五音が「三音節」と「二音節」からなる五音の場合の「二音節」は、

 

 タタ タ タタントン

♪♪ ♪ ♪ †  ζ |

     あき の そ ら

           

 

 タタ タ タタントン

♪♪ ♪ ♪ † ζ |

     あき の う み

 秋 の 海

 

 と一拍半になり、『八分音符(♪)』が一つと、『四分音符(†)』が一つと云ふ、

 

タタン

♪ †

   そ ら

 

 

タタン

♪ †

   う み

 

 

 このやうな弱起の音型となる事が多く、それは自然と呼吸を整へようとする意思の現れでもあらうし、又、五音目の『四分音符(†)』を『八分音符(♪)』にして、その代り『八分休符(γ)』と『四分休符(ζ)』、ち『符點四分休符(ζ・)』にして、

 

 タタ タ タタトオン

C♪♪ ♪ ♪♪  ζ・|

    あき の そら

     秋   

 

 タタ タ タタトオン

C♪♪ ♪ ♪♪ ζ・|

    あき の うみ

     秋   

 

 勿論、これでも大きな問題はないと言へるだらう。

 

七、三音節の『拍子』に就いて

 

 次の「三音節」は可也(かなり)複雜で、全部で四つの音型が考へられる。

 

 一つ目は、

 

   タ タタン

2|4♪ ♪ †

      ぼ た ん

      牡   丹

  

   タタ タン

2|4♪♪  †

      とん ぼ

       蜻   

 

 このやうに『八分音符(♪)』が二つと、『四分音符(†)』が一つの『拍子』と考へられ、この場合は、

 

 タタ タタタントン

♪♪ ♪♪ †  ζ|

    ちる ぼた ん

     散る 牡 丹

 

 タタ タタタントン

♪♪ ♪♪ † ζ |

    とぶ とん ぼ

     飛ぶ  蜻 蛉

 

 のやうに「二音」と「三音」からなる、上下五句の「五音」の時の『三音節』か、戓いは、

 

 タタタタ タタタン

♪♪♪♪ ♪♪ †

 ちりゆく ぼた ん

 散り行く 牡 丹

 

 タタタタ タタタン

♪♪♪♪ ♪♪ †

 とびゆくとん ぼ

 飛び行く  蜻 蛉

 

 このやうに『中七句』が、「四音」と「三音(若しくは二音二音三音)」からなる、「七音」の時の『三音節』が考へられる。

 但し、「三音」と「四音(或いは三音二音二音)」からなる七音の、『中七句』の場合の『三音節』は、「四音・三音」の時の「七音」とは『拍子』が違ふので、また別に述べる事にする。

 更に、

 

 タタタンタタタン

♪♪ † ♪♪ †

ちつ た ぼたん

 散つ た 牡 丹

 

 タタタンタタタン

♪♪ † ♪♪ †

 とん だ とん ぼ

 飛ん だ  蜻 蛉

 

 この『中七句』の部分が、「三音」と「三音」で「六音」となる、『字足らず』の時の用例が(おほ)いと()へるだらう。

 

 二つ目は、

 

   タンタ    タン

2|4 † ♪(三連符) †

       ぼ た     ん(牡丹)

 

   タタン    タン

2|4♪ †(三連符) †

       と ん     ぼ(蜻蛉)

 

 といふ音型で、これは『八分音符(♪)』が一つと『四分音符(†)』が二つあるので、二拍半の音の長さかといふとさうではなく、一つは『八分音符(♪)』と『四分音符(†)』が共に一つづつで、

 

   タンタ タタタ タン

1|4 † ♪♪♪♪

 

   タタン タタタ タン

1|4♪ †♪♪♪

 

 これは『三連符(♪♪♪†)』といふ音型の一拍と同じ音の長さとなり、後の『四分音符(†)』を加へて二拍としかならないのである。 ()うして、

 

 タタタ    タンタ    タントン

♪♪♪(三連符) † ♪(三連符) † ζ |

ちつた(散つた) ぼ た     ん(牡丹)

 

 タタタ     タタン    タントン

♪♪♪(三連符) ♪ † (三連符) † ζ |

とんだ(飛んだ) と ん      ぼ(蜻蛉)

 

 のやうに、上の『三連符(♪♪♪)』の言葉を受けて出來易い音型であると言へる。

 然し、何故『四分音符()』に『八分音符()』と、『八分音符()』に『四分音符()』といふ音型の違ひが出來(でき)るかといふと、同じ『三連符(♪♪♪())』でも「一音」と「二音節」からなる「三音」と、「二音」と「一音」からなる「三音節」との違ひであると言へよう。

 但し、それが總てとは言へないし、またこの音型は上下五句の場合が(おほ)く、「三音」と「四音」による『中七句』の場合の「三音節だと、次に述べるやうな音型になり易いと言へるだらう。

 

 三つ目、

 

   ンタタタ

2|4γ♪♪♪|

    ぼたん

  牡 丹

 

   ンタタタ

2|4γ♪♪♪|

    とんぼ

     蜻 蛉

 

 このやうに、『八分休符(γ)』一つと『八分音符()』三つで二拍となり、この場合は次のやうな音型であると言へる。

 

    ンタタタ タタタタ

   Cγ♪♪♪ ♪♪♪♪|

     ぼたん ちりゆく

     牡 丹  散り行く

 

   ンタタタ タタタタ

  Cγ♪♪♪ ♪♪♪♪|

    とんぼ とびゆく

     蜻 蛉 飛び行く

 

 このやうに、「三音」と「四音」の『中七句』の時に使用される「三音節」で、最も發句の『中七句』の場合の基本的な音型の一つで、定型の『中七句』の音型では、違つたもう一つがあるばかりであるが、これだと、「三音」と「三音」の場合でも

 

    タタタ タタタン

   C♪♪♪ ♪♪

    ぼたん ちつ て

    牡 丹  散つ て

 

    タタタ タタタン

   C♪♪♪ ♪♪

    とんぼ とん で

      蜻 蛉 飛ん で

 

 充分利用出來る音型である事も、理解出來るものと思はれる。

 但し、「五音」の場合に使用される時は、『字足らず』の時に活用される場合(ばあひ)が多く、「上下五句」が『字足らず』で「四音」になつた場合の、

 

    ンタタタタントン

   Cγ♪♪♪ † ζ |

    ぼたん よ

    牡 丹  よ

 

   ンタタタタントン

  Cγ♪♪♪ † ζ |

     とんぼ よ

      蜻 蛉 よ

 

 と考へられる。尤も「牡丹」の時の限つては、「ぼうたん」といふ長音の發音をして、「四音」になる場合があるが、

 

    タンタタタントン

   C ♪♪  ζ |

    ぼうたん よ

 

 これは例外と言つて良いだらう。

 

 四つ目の音型は、

 

      たたた

   1|4♪♪♪()(三連符)

      ぼたん

      牡 丹

 

      タタタ

   1|4♪♪♪()(三連符)

      とんぼ

        蜻 蛉

 

このやうに『八分音符()』が三つで一拍となり、西洋音樂ではこれを「三連符(♪♪♪())」と稱する事は、以前に述べた通りであり、『一拍子』と考へる事も出來、これは發句では主に『字餘り』の時の音型だと言へるが、寧ろ、「拍子」を整へようとする意識の現れである、といふ方が正しいかも知れない。

 「三音節」に()いては、「一音」の名詞に助詞や助動詞の音

「手から」といふやうに二つ加はつたとしても、「三音節」と考へる事が出來、それは當然「二音節」の名詞に助詞や助動詞の音が、「花は」といふやうに一つ加はつて「三音節」になつても、同じ事であるのは言()までもない。

 

八、四音節の『拍子(リズム)』に就いて

 

 「四音節」の『拍子(リズム)』は、

 

   タタタタ

   ♪♪♪♪|

   むらさき()

 

 このやうに、『八分音符()』が四つで二拍となり、「二音節」の連續(れんぞく)と同じと考へられる場合と、

 

   タタタ    タン

♪♪♪()(三連符) †|

   むらさ     き

 

 のやうに、『八分音符()』が三つで『三連符(♪♪♪()†)』の一拍と、『四分音符()』一つの一拍とで二拍とする場合があるが、この例は別にしても、多くは「三音」と「一音」、或いは「二音」と「二音」による『四音節』と考へられ、『字餘り』の句に使はれる音型だと言へる。又、それ以外の音節に關しては、今まで述べた音型の組合せでしかなく、例へば「澪標(みをつくし)」などのやうな「五音節」にしても、(あと)は『四分四拍子』の『三小』の中へ、言葉を如何に秩序良く、且つ音樂的に竝べるかといふ作業があるだけである。

 

 

   一九八七昭和六十二丁卯年六月十二日



§



第三章 「五音」と「七音」の音節の組合せに就いて



 これで音樂用語や音節の説明に就いては、理解出來たものと思はれるので、實際の發句の『拍子(リズム)』に就いて述べなければならないのだが、しかし、その前に先づ「五句」と「七句」の音調の『拍子』の組合せを取り上げて見ようと思ふ。

 その方が、これから述べる事の助けになると思ふから……。

 

     一、「五音」の音節()いて

 

 「五音」の音節は、『上句』と『下句』の場合で、

 

   散る牡丹

 

 のやうに「二音(散る)」と「三音(牡丹)」の組合せか、

 

   牡丹散る

 

 のやうに「三音(牡丹)」「二音(()る)」の組合せが考へられ、更に、

 

   紫(むらさき)

 

 のやうに「四音()」と「一音()」の組合せと、

 

   濃紫(こむらさき)

 

 のやうに「一音(())」と「四音()」の組合せとが考へられるが、これ()は、

 

    タタタタタントン

   C♪♪♪♪ † ζ |

 

 といふ音型がその總てであらうかと思はれる。

 但し、鑑賞の時に和歌や發句では二度詠みをするが、二度目の時の『下五句』は、

 

    タタタンタタトン

   C♪♪ ♪♪ ζ |

 

 かうなる事が多く、その他若干の音型の變化があるかと考へられるが、それは終止感を強める為にさうなるのは、言ふまでもないだらう。

 

     二、七音の『音節』に()いて

 

 『中七句』は、

 

    タタタタタタタン

   C♪♪♪♪♪♪

    そらうみかは に

     空 海 川 に

 

 といふやうに、「二音()、二音()、二音((かは))、一音()」、或いは「二音((そら))、二音()、三音(川に)」といふ組合せと、

 

    ンタタタタタタタ

   Cγ♪♪♪♪♪♪♪|

     そらとうみべと

      空 と 海 邊と

 

 といふやうに、「三音((そら)と)、四音(海邊と)」の組合せ(正確には「二音()、一音()、三音(海邊)、一音())と、

 

    タタタタタタタン

   C♪♪♪♪♪♪ † |

    うみべとそら と

海 邊と空  と

 

 といふやうに、「四音(海邊と)、三音(空と)」の組合せ(これも正確には「三音(海邊)、一音()、二音((そら))一音())と、

 

    タタタタタタタン

   C♪♪♪♪♪♪ †|

    みづうみをみ る

湖 を見 る

 

 といふやうに、「五音(湖を)、二音(見る)」、若しくは「四音()、一音()、二音(()る)」の組合せと、

 

    タタタタタタタン

   C♪♪♪♪♪♪ † |

    みるみづうみ は

見る  湖  は

 

 といふやうに、「二音(見る)、五音(湖は)」、それとも「二音(見る)、四音()、一音()」の組合せとが考へられる。

 猶、この『中句七音』は、『上五句』の場合は別にして、『下五句』の場合にも活用出來る事を覺えておいてもらひたい。

 尤も、その場合は正式には『片歌(五七七)』と稱してゐるが……。

 

 

   一九八七昭和六十二丁卯年六月十三日



§


第五章 『字足らず』の『拍子(リズム)』に就いて

 

 『字足らず』や『字餘り』を發句では『破調(はてう)』といふが、一部では『字足らず・字餘り』と『破調』とは別のものである(萩原井泉水などの「自由律俳句(・・・・・)」の人々)といふ考へがある。それは、

 

   『俳句は五・七・五による三文節十七音を定型とするが、多かったり少なかったりする場合、これを破調と称している。従って、具体的には、各文節の『字餘り』、『字足らず』となってあらわれる。(俳句九月臨時増刊〈昭和五十二年〉現代俳句辞典より)

 

 といふ考へは、

 

   C♪♪♪♪ζ|♪♪♪♪♪♪†|♪♪♪♪ζ|

    さまざまの  ことおもひだす さくらかな

    さまざまの  事 思 ひ出す 櫻  かな  芭蕉

 

 こやうな「五音・七音・五音」や、

 

   C♪♪♪♪ζ|♪♪♪♪♪γ♪♪|♪♪♪♪†ζ|

    うみくれて  かものこゑ ほの かにしろし

    海 暮れて  鴨 の 聲  ほの かに 白 し   芭蕉

 

 この「五音・五音・七音」のやうなものは、『字足らず』や『字餘り』ではなく、『破調』であつて、これを同じに論ずる事は出來ないといふものであるが、(はた)してさうだらうか。

 といふのも、例へば「七音・五音・五音」の場合は、「上句」の『字餘り』と、「中句」の『字足らず』であるといふ見方が出來、「海暮れて」の「五音・五音・七音」に就いては、「中句」の『字足らず』と「下句」の『字餘り』だ、と考へる事が出來るからである。

 とすれば、『字餘り』や『字足らず』と『破調』とが別のものである、と敢へて異を稱へて、混亂を招く愚を侵す必要もない事になると言へ、發句に於いて『字足らず』や『字餘り』が、『五七五』といふ形の時のだけ言ふのではなく、又、『十七文字』の時にだけに言ふのでもない事が分かるだらう。

 ここに『五七五』の『十七文字』といふ目安が生じる所以(ゆゑん)だと言へる。

 しかし、『破調』に非ざるもの、詰り『五七五』以外の『十七文字』や、それよりも文字數が多かつたり少ないもので、しかも『拍子(リズム)』の異なる『異調・異體(『四分四拍子』の『三小節』以外の)』ものは、『破格』と呼ぶ事にする。

 『破格』とは、簡単に言へば發句(ほつく)以外の他の形式の事で、發句から見れば和歌も『破格』と呼ぶ事が出來るだらう。

 では、『破調』の『拍子』に就いて述べる事にする。

 先づ、『字足らず』句から説明しよう。

 

 

     一、四音の『字足らず』の『拍子』に()いて

 

 

 大橋裸木に、「四音」の、

 

   C♪♪|♪♪ζζζ|

    陽へ 病む

 

 といふ詩句がある。

 詩句と書いたのは、これが發句かどうか疑はれるからである。

 第一、『八分音符()』が四つしかなく、「休符」の二拍を足しても『四分四拍子』の「一小節」がやつとといふのでは、發句も何もあつたものではない。それに、

 

   3|4♪♪|♪♪ζζ|

      陽へ 病む

 

 言葉が短いから『拍子』の影響を受け惡く、このやうに、『四分三拍子』にも出來るので、これは『破格』の句と言へるだらう。

 それならば、

 

   C♪♪♪♪†ζ|♪♪♪♪♪♪†|♪♪♪♪†ζ|

    しづかさや  日増しに病む身 ひなたぼこ  不忍

 

 と詠んだ方が、その境地(きやうち)をよく理解出來るといふものである。

 元の句は『字足らず』ばかりでなく、『拍子足らず』の句であるも言へるだらう。尤も、これは發句といふ觀點から批評した結果であつて、その形式を度外視すれば、自づと批判の目も變つて來るといふものである。

 だが、この詩句には日本人らしい發句のきがあるではないか、といふ人がゐるかも知れないだらうが、さう思ふ人に對しては、日本の文章といふものは西洋の文章に比べると、研究や論文或いは報道記事を除けば、小説にしろ隨筆しろ、いや手紙でさへも、一般に俳文的であると(こた)へて置かう。

 さて、次の「五音」から「八音」の詩句に就いては、手元に資料もなく、又、「上下五句」や「中七句」の時と同じで、「一小節」か、長くても「二小節」の一拍までを利用すると考へられるので、實例は省く事にする

二、「九音」の『字足らず』の『拍子』に
(

いて

  次に「九音」の詩句を調べて見よう。

 

   C♪♪♪() ♪♪♪() ♪† †|

    せきを しても ひと り   放哉

 

 これは尾崎放哉の有名な詩句であるが、『八分音符()』が七つと、『八分休符(γ)』が一つと、『四分音符()』が二つで、普通ならば『四分四拍子』の「二小節分はあるのだが、この場合『八分音符()』三つで、『四分音符()』一つと同じ長さになるといふ三連符(♪♪♪=†)の音型で、しかも途中からは『八分音符()』一つと、『四分音符()』一つで一拍(♪†=♪♪♪())分となつたり、『四分音符()』一つと『八分音符()』一つとで一拍(†♪=♪♪♪=†)となつて、然し、それでも全體で『四分四拍子』の「一小節」しかなく、「六音・三音」といふ音調になり、これまた、

 

   3|4γ♪♪♪♪♪|†♪♪†|

       せきをして もひとり   放哉

 

 このやうに、『四分三拍子』に詠む事が出來、これでも「二小節」にしかならない。

これでは、

 

   C♪♪♪♪†ζ|♪♪♪♪♪♪†|♪♪♪♪†ζ|

    屁をしても  をかしくもない ひとりもの

 

 

 といふやうな、「川柳」の境地と等の作品で、發句として見るならば、形式的には堕落してゐると言つても過言ではない。

 「せきをしてもひとり」とは、それまで「ひとり」である事をそれほど自覺しなかつた事で、瞑想的氣分に浸つてゐた事を表すのだらうが、この詩句を詠んだ時、作者はしみじみとその事を實感した。

 しかし、この儘ではただそれだけの事であるが、

 

   C♪♪♪♪†ζ|γ♪♪♪♪♪†|♪♪†ζζ|

    きがつけば   せきをしても ひとり

    氣がつけば    咳 をしても  獨 り

 

 とする()

 

   C♪♪♪♪†ζ|♪♪†♪♪†|♪♪†ζζ|

    氣がつけば   咳 をしても  獨 り

 

 とすれば「五音・六音・三音」といふ音調で、『破調』には違ひないが、『破格』にもならず、三連符(♪♪♪=†)からも解放されて、ゆつたりとした『拍子(リズム)』になつてゐる。

 句意も時間の經過が擴がつて、作者の幼少の時期にまで遡る事が可能である。

 その事によつて、嘗ては親兄弟があつた事や、或いは多くの人との親交にまで、その思ひを馳せる事が出來る。即ち、瞑想的氣分に浸つてゐる時、思はず咳が出た。たつた「獨り」である事の寂寥感が押し寄せて來て、人生の果敢無さに取り圍まれてゐる作者の像が浮かび上がつて來ると同時に、讀者もその作者と變らぬ世界の住人であると敎へられるのである。

 だから「獨り」といふ言葉が「氣がつく」といふ内容を表しても、決して重複してゐる事にはならないし、『拍子』の上から言つても發句の『四分四拍子』の『三小節』といふ條件を滿たしてゐる事になる。

 更に、よりそれを滿たさうとするならば、「下句」を「五音」にする爲に、『切字』の「かな」を加へて「獨りかな」とすれば、

 

   C♪♪♪♪†ζ|γ♪♪♪♪♪†|♪♪♪♪†ζ|

    氣がつけば    咳 をしても  獨 りかな

 

 といふ音型か、

 

   C♪♪♪♪†ζ|♪♪†♪♪†|♪♪♪♪†ζ|

    氣がつけば   咳 をしても  獨 りかな

 

 このいづれでも安定感を增すが、案外、單に「秋の暮」を(くは)へて、

 

   C♪♪♪♪†ζ|♪♪♪() ♪♪♪() ♪† †|♪♪♪♪†ζ|

    きがつけば  せきを しても ひと り あきのくれ

    氣がつけば   咳 を しても  獨   り  秋 の 暮

 

 とした方が「五音・九音・五音」の『字餘り』となり、「中句」が「九音」になつたから、再び三連符(♪♪♪=†)を使用しなければならなくなつたものの、發句としては、ほぼ體裁を整へた事になる。

 のみならず『季語(きご)』はなくなるが、「下句」を「夜に臥す」とすれば、

 

   C♪♪♪♪†ζ|♪♪♪() ♪♪♪() ♪† †|♪♪♪♪†ζ|

    きがつけば  せきを しても ひと り よるにふす

    氣がつけば   咳 を しても  獨   り  夜 に臥す

 

 先程の「川柳」の句とは、似ても似つかぬ句境を表現し得た事になるのではあるまいか。

 しかし、『字餘り』に就いては、また後の項で詳しく説明したいと思ふので、ここではこれ以上深く拘はらないでおかう。

 元の句は、「上句」と「下句」の『字足らず』及び『拍子足らず』の句である、と言へるだらう。


 三、「十音」の『字足らず』の『拍子』に

()いて

 

 次は「十音」の詩句である。

 

   Cγ♪♪♪♪♪♪♪|♪♪†ζζ|

     くらさにほへば ほたる   山頭火

 

 この作品は「七音・三音」の音調である。

 これも『四分四拍子』で「二小節」しかないが、「二小節」で許される場合もあるのだが、それは『字餘り』の項に讓る事にして、『字足らず』の場合を解析すれば、發句としては何とも不自然である事が分かると思はれる。

 この詩句は、「くらさ」が「にほふ」と詠んだ所に着眼點あり、が芭蕉の言葉に「發句は取合せなり」といふ、これはその見本のやうな作品で、大變美しい詩句と言へるだらう。

 だが『拍子』としては、

 

   3|4γ♪♪♪♪♪|♪♪♪♪†|

       くらさにほ へばほたる   山頭火

 

 と『四分三拍子』にする事も可能で、それでも「二小節」である。

 一體、短い詩句は「三拍子」でも「四拍子」でも都合の良い場合があり、どうしても「四拍子」にしたければ、「上五句」か「下五句」を加へれば「四拍子」となる。

 この詩句の場合は、「上句」に「ぬかるみに」と加へて、

 

   C♪♪♪♪†ζ|γ♪♪♪♪♪♪♪|♪♪†ζζ|

    ぬかるみに   くらさにほへば ほたる 

 

 とすれば、「五音・七音・三音」の音調となつて、形式的には『破調』だが、『四分四拍子』としては完成された、しかも『三小節』となつてゐる。

 この場合、敢へて『五七五』の音調に整へる爲に、

 

   C♪♪♪♪†ζ|♪♪♪♪♪♪†|♪♪♪♪†ζ|

    ぬかるみに  くらさにほへば ほたるかな

 

 のやうに「ほたるかな」と「かな」を加へなくて、「ほたる」だけでも(ひび)きとしては不自然とは感じられない。

 といふのも、『三小節』目が「二拍」あるからで、これが「一拍」しかないと『拍子』の不足によつて、發句としては不完全であるといふ事は、「第四章の定型の『十七文字』に就いて」で述べた通りである。

 これは前の「九音」の句とは逆に、「かな」を足さない方が動的で、元の句の着眼點は損なはれずに()むが、それでも、この詩句は「上句」の不足を(いな)めないだらう

 


四、「十一音」の『字足らず』の『拍子』に
()いて

 

 次は「十一音」の詩句で、

 

   4|4♪♪♪♪♪♪♩|♩ ♪♪  |

       (かへる) の (こゑ) の  滿(まん) (げつ)   裸木(らぼく)

 

 これは大橋裸木の作で「七音・四音」の音調(おんてう)であるが、前の詩句(しく)と同じやうに、

 

   3|4♪♪♪♪♪♪|♩♩♪♪|

      かへるのこゑ

       (かへる) の (こゑ)  の 滿(まん) (げつ)   裸木(らぼく)

 

 と「四分三拍子」に出來る。さうして矢張(やはり)「二小」である。

 この句は「(こゑ)」の所に要點(ポイント)があつて、本來(ひんらい)は、

 

   4|4♪♪♪♪♪♪♩|♪♪♪♪♪♪ |♪♪♪♪♩♪♪|

       (かへる) の (こゑ) が ()こえてゐる   (そら) には滿(まん) (げつ) 

 

 となるべき(はず)の文章を簡略化(かんりやくくわ)した詩句(しく)で、「蛙の(こゑ)が」(まる)くころころと()こえてゐる(さま)を、「滿月(まんげつ)」に(なぞら)へてゐるのだらうが、「(かへる)(こゑ)」で「滿月(まんげつ)」が(あらは)れたやうに感じられたといふ句意(くい)でない事は、(あらた)めていふまでもないで()う。

 (みじか)詩句(しく)といふものは、省略(しやうりやく)餘儀(よぎ)なくされた形式だと言へ、その省略の如何(いかん)によつて、詩句の()()しが決定する事がある、と言つても差支(さしつか)へがないぐらゐ大切(たいせつ)なものである。

 それでも、この詩句(しく)背景(はいけい)鮮明(せんめい)で、容易(ようい)にその風景を思ひ浮かべる事が出來(でき)るだらう。

 しかし、發句(ほつく)といふ形式から見ると、この詩句は『拍子たらず』の句であるといふ問題は、依然(いぜん)として(のこ)つてゐるので、「上句」に「風ふるへ」といふ五文字を追加(ついか)して、

 

   4|4♪♪♪♪♩|♪♪♪♪♪♪♩|♩ ♪♪  |

       (かぜ) ふるへ  (かへる) の (こゑ) の 滿(まん)  (げつ)   

 

 といふやうにすると「五音・七音・四音」の音調(おんてう)で、『四分四拍子』の『三小』といふ條件(でうけん)滿()たす事になる。

 だが、それだけの(こと)である。

 この詩句(しく)は何かもつと(べつ)の『自由詩』にした(はう)が、良くなるやうに思はれる。

 

五、「十二音」の『字足らず』の『拍子』に
()いて

 

 次の「十二音」は、山頭火(さんとうくわ)詩句(しく)で示さう。

 

   4|4♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪♩|

      けふはあられに たたかれて  山頭火(さんとうくわ)

 

 これは「七音・五音」の音調(おんてう)で、(あき)らかに「上句」の不足が感じられる。その理由(りいう)としては『四分四拍子』であつても、それが「二小」しかないといふ事だとは、もう理解(りかい)出來(でき)るだらう。

 この詩句(しく)も、

 

   3|4 ♪♪♪♪♪|♪♪♪♪♪♪|♩  |

       けふはあら れにたたかれ て  山頭火(さんとうくわ)

 

 のやうに「四分三拍子」にする事が可能(かのう)であるのは、それが『四分四拍子』の時に、「二小」しかないからだ、といふことは諒解(りやうかい)出來(でき)るだ()う。

 内容(ないよう)調(しら)べると、いつもなら()つてゐない「あられ」が今日(けふ)は降つてゐて、こんな日の行乞(ぎやうこつ)はつらいものだといふぐらゐの句意(くい)であらう。

 それに「ありがたや」といふ「上五句」を(くは)へれば、『五七五』といふ正規(せいき)音調(おんてう)になる。

 

   4|4♪♪♪♪♩|♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪♩|

      ありがたや けふはあられに たたかれて

 

 いつもなら()つてゐない「あられ」が、今日は降つてゐる。だが、私((さくしや))はこれを友として行乞(ぎやうこつ)出掛(でか)けよう、といふ句意に(かは)るかと思はれるし、なによりも嬉しくもない「あられ」を、「ありがたや」といふ(ところ)に、雲水(うんすい)の身の(さくしや)面目(めんもく)躍如(やくじよ)たるものがあると思ふのは、(ひと)(ひやうしや)だけだらうか。

 これだと『四分四拍子(よんぶんのよんびやうし)』以外にはならないだらうし、(すく)なくとも「四分三拍子」にはなりやうもなく、それに『三小(さんせうせつ)』といふ發句(ほつく)()にも(かな)つてゐる。

 山頭火(さんとうくわ)には、行乞(ぎやうこつ)(さま)を詠んだ「十二音」の詩句(しく)がまだあつて、

 

   4|4♪♪♪♪♩|♪♪♪♪♪♪♪|

       (はち)()の  (こめ)(しろ) さよ  山頭火(さんとうくわ)

 

 これは「五音・七音」の音調(おんてう)で、

 

   3|4♪♪♪♪♩|♪♪♪|♪♪♪♪|

       (はち)()の  (こめ) の  (しろ) さよ  山頭火(さんとうくわ)

 

 「四分三拍子(よんぶんのさんびやうし)」にも出來(でき)るのは同じである。

 さうして、前の詩句の情景を(あは)せて、「打つあられ」といふ「下五句」を加へると、『五七五』の音調(おんてう)で、

 

   4|4♪♪♪♪♩|♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪♩

       (はち)()の  (こめ)(しろ) さよ 打つあられ

 

 となつて、發句(ほつく)としては完成(くわんせい)された事になると(おも)はれる。

 もう(ひと)つは、

 

   4|4♪♪ ♪♪♪() ♪♪♪♪|♪♪♩  |

       (てつ)  (ばち)  (なか) へも あられ   山頭火(さんとうくわ)

 

 といふ「九音・三音」に音調(おんてう)の似たやうな詩句(しく)があつて、これも「四分三拍子」に出來(でき)るのは同じである。

 

   3|4♪♪ ♪♪♪() ♪♪|♪♪♪♪♩|

       (てつ)  (ばち)  (なか)  へもあられ   山頭火(さんとうくわ)

 

 この詩句(しく)も「二小」しかなく、「上句」か「下句」の不足が感じられ()

 そこで(まへ)の二句の情景を(あは)せて、「米白し」といふ「下句」を加へると、『五七五』の音調(おんてう)で、

 

   4|4♪♪ ♪♪♩|♪♪♪♪♪♪♩|♪♪♪♪♩|

       (てつ)  (ばち) の  (なか) へもあられ  (こめ) (しろ)

 

 となつて、發句(ほつく)の響きとしては完璧(くわんぺき)になる。

 行乞(ぎやうこつ)()た「鐡鉢(てつばち)の中」の米にも「あられ」が(はい)つて、米と「あられ」の區別(くべつ)がつかない。(ある)いは「鐵鉢(てつばち)の中」には、まだ米を手に入れられず、その中に「あられ」が大地と區別(くべつ)なく、(はげ)しい音を立てて入つて()て、まるで米のやうに見える。

 それにしても、米を得られるのは有難(ありがた)い事だ、といふ句意(くい)にならうか。

 けれども、元の詩句(しく)には「下句」よりも、「上句」に「うまさうな」といふ五句を加へて、「五音・九音・三音」として、

 

   4|4♪♪♪♪♩|♪♪ ♪♪♪() ♪♪♪♪|♪♪♩|

      うまさうな  (てつ)  (ばち)  (なか) へも あられ

 

 とした(はう)が、今日(けふ)行乞(ぎやうこつ)で何か得られるだらうかと感じるか、それとも何も得られない(まま)今日(けふ)(をは)るのかと感じるのか、(ある)いは何も得られなかつた今日(けふ)一日(いちにち)(をは)りに「あられ」が()つて、「鐵鉢(てつばち)の中へも」落ちる。まるで米のやうに白くうまさうだなといふ句意(くい)になり、句境(くきやう)としても、一段と冴え渡つて來るのを感じ取る事が出來ないだらうか。

 元の詩句(しく)だと、情景を投げ出しただけで、それをどのやうに(とら)へたのかは言はずに、(どくしや)(まか)せるといふのでは、『短詩』と(いへど)もどうかと(おも)はれる。

 美しい『拍子(リズム)』を作る(ため)に、意味のない言葉を(なら)べるのでは、詩とは()へない。

 意味のある(うつ)しい言葉の中に『拍子(リズム)』があるものをこそ、詩と呼ぶので()る。

 (さら)に、その『拍子(リズム)』が、(すべ)て『四分四拍子』とか、「四分三拍子」とかの一定(いつてい)の『拍子(リズム)』で(きざ)まれたものを、本書では『定型詩』と定義附(ていぎづ)けてゐる(勿論(もちろん)これだけが定型の條件(でうけん)ではないが)ので、それがたとへばらばらの『拍子(リズム)』であつても、『拍子(リズム)』は依然としてなくなつてはゐないのあるの()ある。

 (ゆゑ)に、散文には『拍子(リズム)』がないといふのは(あやま)りである。

 先にも述べたやうに、音を(はつ)する言語(げんご)にはどのやうな言葉であれ、自づと『拍子(リズム)』を(そな)へてゐるものである。

 (さくしや)發句(ほつく)()ける『破調(はてう)』といふものを、絶對的(ぜつたいてき)に許されないものだとは(おも)つてゐない。

 だが、このやうな詩句(しく)を、發句(ほつく)をとしては認められないのである。

 せめて「五音・九音・三音」といふ『破調(はてう)』でも、

 

   4|4♪♪♪♪♩|♪♪ ♪♪♪() ♪♪♪♪|♪♪♩|

      うまさうな  (てつ)  (ばち)  (なか) へも あられ

 

 といふやうな(かたち)にまで高められたものであるならば、許しても(かま)はないだらうと(おも)はれるのである。

 (しか)し、これだと、

 

   4|4♪♪♪♪♩|♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪♩|

      うまさうな  (ゆき) がふうはり ふうはりと  一茶

 

 といふ小林一茶(こばやしいつさ)の句と、句境(くきやう)が似てしまふ心配がないでもない。

 

これを『(とうるい)』といふ。

 

六、「十三音」の『字足らず』の『拍子』に
()いて

 

 次に「十三音」の詩句(しく)で、

 

   4|4♪♪♪♪♪ ♪♪♪()|♪♪♪♪♩ |

       (やま) のしづ けさは  (しろ)(はな)   山頭火(さんとうくわ)

 

 これは詩種田山頭火(たねださんとうくわ)詩句(しく)で、「八音・五音」の音調(おんてう)であるが、「上句」の不足である事は理解(りかい)出來(でき)るだらう。

 句意(くい)は「山のしづけさ」の象徴(しやうちよう)として、「白い花」を(はい)した所に着眼(てん)があると言へ、非常に詩としては纏まつてゐる。

 

   3|4♪|♪♪♪♪♪♪|♩♪♪♪♪|♩ |

       (やま) のしづけさ は (しろ) い (はな)   山頭火(さんとうくわ)

 

 これも「三拍子」に出來なくもないが、この文字(もじ)(すう)だと、流石(さすが)に『四分四拍子』の(はう)が落着いてゐるやうに思はれる。

 どうも「三拍子」になり(やす)い言葉は、「三音」とか「六音」とか「九音」とかの、「三」で割切(わりき)れる音數(おんすう)が、詩句

中に含まれてゐる場合だと言へるだらう。勿論(もちろん)、三音の言葉でも「長音(ちやうおん)」や「促音(そくおん)」や「(えう)(おん)」や「撥音(はつおん)」の含まれてゐる言葉の(はう)が、「三拍子」には都合が良いのだ()……。

 この詩句(しく)も「木洩(こも)()の」といふ「上五句」を(くは)へて、「五音・八音・五音」の音調(おんてう)で、

 

   4|4♪♪♪♪♩|♪♪♪♪♪ ♪♪♪()|♪♪♪♪♩ |

      木洩(こも)()の  (やま) のしづ けさは  (しろ)(はな)

 

 とした(はう)が、全景(ぜんけい)を頭の中に浮かべ(やす)いだらう。

 發句(ほつく)の面白さや美しさを(あぢ)ふのは、かういふところにも、その一端があるやうに(おも)はれる。

 次も山頭火(さんとうくわ)詩句(しく)で、

 

   4|4♪♪♪♪♩| ♪♪♪♪♪♪♪|♩ |

       (やま) ゆけば   (みづ)(みづ) すま し   山頭火(さんとうくわ)

 

 この詩句(しく)は、さつきとは反對(はんたい)に「五音・八音」の音調(おんてう)で、

 

   3|4♪♪♪♪♩| ♪♪♪♪♪|♪♪♩ |

       (やま) ゆけば   (みづ)(みづ)  すまし   山頭火(さんとうくわ)

 

 このやうに「四分三拍子」にする事が可能(かのう)であり、一見(いつけん)「下句」の不足であるやうに見えるが、(じつ)は、これは「中句」の不足であるといふのが正解(せいかい)であらう。

 何故(なぜ)なら、「(みづ)すまし」の前にある「水の」といふ言葉は、どのやうな「(みず)」であるかといふその性格を省略した言葉で、「溜池(ためいけ)」なのか「水溜り」なのか、それとも道端の「(かめ)」か何かに溜まつた「水」なのか分からず、(むし)ろ、省略のし過ぎだと言へるだらう

 そこで、「水の」を(はぶ)き、「溜池(ためいけ)ありて」といふ「中句」を(くは)へて、

 

   4|4♪♪♪♪♩|♪♪♪♪♪♪♩|♪♪♪♪♩ |

       (やま) ゆけば  (ため) (いけ) ありて  (みづ) すまし

 

 かう()むと『五七五』になり、納得が行くのではあるまいか。

 次の詩句(しく)山頭火(さんとうくわ)の作品で、

 

   4|4♪♪♪() ♩♪ ♩|♪♪♪♪♪♪♩|

      からす ない て わたしもひとり   山頭火(さんとうくわ)

 

 といふ「六音・七音」の音調であるが、これは「からすないて」が「六音」あるので、

 

   3|4♪♪♪() ♩♪ ♩|♪♪♪♪♪♪♩|

      からす ない て わたしもひとり   山頭火(さんとうくわ)

 

 と「四分の三拍子」に出來て、三拍子になると二小節になるが、發句としては不自然に感じられるだらう。
 この「わたしも」の詩句は、放哉の「せきをしてもひとり」といふ詩句を蹈まへた事を意味してゐるのと同時に、人は總て皆「ひとり」だといふ事をも表現してゐる。
 當然、放哉の「せきをしてもひとり」といふ詩句は、芭蕉の「枯枝に」の句に呼應してゐる。その所爲(せゐ)でもないが、この詩句に「秋の暮」といふ下五句を加へると、「六音・七音・五音」で、

   C♪♪♪ †♪ †ζ-♪♪♪♪♪♪†-♪♪♪♪†ζ-
    からす ない て  わたしもひとり あきのくれ
    からす ない て  わたしもひとり 秋 の暮

 となつて、誰でも發句と認める事だらう。
 ここまで來ると、どうも『自由律俳句』の人々は、何か「五七五」と詠む事を恥だ、とでも思つてゐるかのやうである。
 尤も、この詩句は、

   C♪♪♪♪†ζ-♪♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪-† ♪♪♪♪†-
    かれえだに  からすの とまり たる や あきのくれ 芭蕉
    枯 枝 に  烏  の とまり たる や 秋 の暮

 といふ句と、等になる事を嫌つた所爲(せゐ)かも知れないが、元の詩句のやうに「字足らず」にすれば良いといふものではない。

 

七、『十四音』の『字足らず』の『拍子』に就いて



 次は『十四音』の詩句である。
 一つ目。

   Cγ♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪♪♪†|
     うしろすがたの しぐれてゆくか  山頭火

 これは七句の「三音・四音」と「四音・三音」の音調である。

 二つ目。

   Cγ♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪♪♪†|
     みづにかげある たびびとである
     水 に影 ある 旅 人 である  山頭火

 これも七句の「三音・四音」と「四音・三音」の音調である。

 三つ目。

   Cγ♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪♪♪†|
     ゆきがふるふる ゆきみてをれば
     雪 がふるふる 雪 見てをれば  山頭火

 最後も七句の「三音・四音」と「四音・三音」の音調である。
これらは種田山頭火の詩句であるが、いづれも「七音・七音」の音調であるものの、

   3|4γ♪|♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪♪♪|†ζ|
       う しろすがたの しぐれてゆく か  山頭火

 といふやうに、『四分三拍子』にも出來る。
 これは二つ目の「水に影ある」の詩句でも、三つ目の「雪がふるふる」でも同じ事で、敢て例を示さないが、その最も大きな理由は『詠嘆』による「大休止」がないので、『三拍子』といふ拍子が許されたのである。
 さうして、『三拍子』の場合は「三小節」になるものの、『四拍子』の場合は「二小節」しかない。
 發句に必要な拍子は『四分四拍子』の「三小節」であるから、これらの詩句は「一小節」の不足だといふ事が言へる。
 
 一つ目の「うしろすがたの」の詩句には、「暮れかけて」といふ上句を加へて、

   C♪♪♪♪†ζ|γ♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪♪♪†|
    暮れかけて   うしろすがたの しぐれてゆくか

といふ「五七七」の片歌と同じ音調になるが、調べは美しく、短詩としても納得が行くだらう。

 二つ目の「水に影ある」の詩句にも、「秋にひとり」の上句を加へて、

   C♪♪♪ ♪† †ζ|γ♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪♪♪†|
    あきに ひと り   みづにかげある たびびとである

 といふ「六音・七音・七音」の音調で、これは發句としては『破格』だが、片歌の『破調』と考へれば納得出來るだらうし、或は「枯れ薄」の上句の方が美しいかも知れない。

   C♪♪♪♪†ζ|γ♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪♪♪†|
    かれすすき   みづにかげある たびびとである

 三つ目の「雪がふるふる」の詩句に就いては、どうかと思ふ事がある。
 「雪」はだれが「見」ても「見」なくても、遙か天空から降つて來るものである。
 この詩句はこの儘では何か都都逸のやうで、「旅遙か」といふ上句を加へ、「五七七」の音調にして、

   C♪♪♪♪†ζ|γ♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪♪♪†|
    たびはるか   ゆきがふるふる ゆきみてをれば

 かうする事によつて、始めてこの詩句が生き生きして來るやうに思はれる。
 それは「雪」を「見」てゐる心理状態を、上五句が雄辯(ゆうべん)に語つてゐるからで、元の句のやうに「雪」が降つてゐるといふ事を、ただ「雪」が降つてゐると詠んだのでは、どのやうな感慨も深める事は出來ないだらう。
 意味のない詩句を、『拍子(リズム)』だけでその美を味はふといふのは、旋律のない音樂を聽くやうなもので、作者には到底堪へられない。
 あのストラビンスキイの曲にさへ、美しい旋律が溢れてゐるのだから、詩にも當然、音樂が『拍子』だけでなく『旋律・和聲』があるのと同様に、調べと内容の美しさがなければならないと言へるだらう。


八、『十五音』の『字足らず』の『拍子』に就いて


 次は『十五音』の詩句で、同じく種田山頭火の作品を五つ調べる事にする。
 一つ目は、

   3|4γ♪|♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪†|♪♪†|
       か さにとんぼを とまらせて あるく 山頭火

 この詩句は「三音・四音」と「五音・三音」の「七八」の音調で、『四分三拍子』の「三小節」であるが、無理にでも『四拍子』にすると、

   Cγ♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪†♪♪|†ζζζ|
     かさにとんぼを とまらせてある く    山頭火

 となつて、「三小節」が一拍しかないので、實際は「二小節」しかないのと同じになるので、發句としては不安定である。
 發句とする爲に、「空澄みて」といふ上五句を加へると、

   C♪♪♪♪†ζ|γ♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪†♪♪|†ζζζ|
    そらすみて   かさにとんぼを とまらせてある く

 「五七八」の音調となつて、『四分四拍子』の「四小節」になつてしまつたが、以前述べたやうに、「四小節」目が一拍だけの利用なので、發句の『拍子』としては、それ程不自然さを多くは感じないだらう。
 それでも、かう詠む事は際疾(きはど)い所にあつて、下句の「あるく」を「あるきます」とすると、

   C♪♪♪♪†ζ|γ♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪†ζ|♪♪♪♪†ζ|
    そらすみて   かさにとんぼを とまらせて  あるきます

 これでは詩句ではなく、文章の一節になつてしまふ。
 發句は小説の文章の一節ではなく、それだけで全てが諒解出來なければならない形式だ、と言へる。
 その爲には、下句の「あるく」を「ゆく」とした方が、音調は「五七七」になるが、定型詩の理に適つてゐるとも言へるだらう。

   C♪♪♪♪†ζ|γ♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪♪♪†|
    そらすみて   かさにとんぼを とまらせてゆく

 更に、「とまらせてゆく」を「貸して行く」と「五音」にすれば、

   C♪♪♪♪†ζ|γ♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪†ζ|
    そらすみて   かさにとんぼを かしてゆく

 隨分、調べは好くなつたと思はれるが、最後に「貸して行く」といふ下五句を、「貸しながら」とすれば、もつと良くなるやうに思はれる。

   C♪♪♪♪†ζ|γ♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪†ζ|
    そらすみて   かさにとんぼを かしながら

 二つ目は、

   C♪♪♪♪†ζ|♪♪♪♪†♪♪|♪♪†ζζ|
    やまじきて  ひとりごといふ てゐた   
    山 路來て  ひとりごといふ てゐた   山頭火

 この句は「五音・五音・五音」の音調で、『四分四拍子』の「三小節」はあるものの、中句の音數が少ないので、下五句全部が下句の働きを出來ずに、「三小節目」が二拍しか使用出來ないのである。

   3|4♪♪♪♪†|♪♪♪♪†|♪♪♪♪†|
      やまじきて ひとりごと いふてゐた 山頭火

 このやうに『三拍子』にも出來、又、中句だけを、

C♪♪♪♪†ζ|♪♪♪♪†ζ|♪♪♪♪†ζ|
    やまじきて  ひとりごと  いふてゐた  山頭火

 このやうにすると、何だか上句ばかりを集めたやうで滑稽だが、さうかと言つて、

C♪♪♪♪†ζ|3|4♪♪♪♪†|C♪♪♪♪†ζ|
    やまじきて     ひとりごと  いふてゐた  山頭火

♪ このやうに、中句だけを『四分三拍子』にすると、定型といふ概念から外れてしまふので、餘り感心は出來ない。
では、何故上五句を『四分三拍子』にしなかつたかといふと、それは發句である爲の條件である、上句の「五音」に『詠嘆』といふ大休止を與()へる爲である事は、もう諒解出來る事と思はれる。
 それでは解決法がないかと言へば、さうではなく、中句の「五音」に「を」といふ格助詞を加へると、

C♪♪♪♪†ζ|♪♪†♪♪†|♪♪♪♪†ζ|
    やまじきて  ひとりごとを  いふてゐた

 といふ形か、或は、

C♪♪♪♪†ζ|γ♪♪♪♪♪†|♪♪♪♪†ζ|
    やまじきて   ひとりごとを いふてゐた

といふ形の「五音・六音・五音」の音調になつて、やや調べは整つて來た事が解るだらう。
それにしても、この詩句は、

C♪♪♪♪†ζ|♪♪♪♪♪♪†|♪♪♪♪†ζ|
    やまじきて  なにやらゆかし すみれ 草   芭蕉

 といふ句と、何處か句の色が似てゐるやうに感じられるのは、作者だけだらうか。
  一層の事、中句に「思はず」を加へて、

C♪♪♪♪†ζ|♪♪♪♪♪♪♪♪|†♪♪♪♪†|
    やまじきて  おもはずひとりご といふてゐた

 「五音・九音・五音」の音調にした方が良いかも知れない。
 しかし、さうなると下句の「いふてゐた」は言ひ過ぎで、不要だと思はれる。
 「言ひおほせてなにかある」
 といふ芭蕉の言葉を持出すまでもなく、發句は語り過ぎては餘韻がなくなるので、下句はさり氣なく「秋の風」とした方が、感極まつた風情があるのではなからうか。

C♪♪♪♪†ζ|♪♪♪♪♪♪♪♪|†♪♪♪♪†|
    やまじきて  おもはずひとりご とあきのかぜ

 止めに、中句の「思はずひとりごと」を、「獨りごちたり」とすれば、

C♪♪♪♪†ζ|γ♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪†ζ|
    やまじきて   ひとりごちたり あきのかぜ

 少なくとも、これで芭蕉の作品とは句境を變へる事が出來ただらう。

 三つ目の詩句は、

Cγ♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪♪♪♪♪|
     はるのやまから ころころいしころ
     春 のやまから ころころ石 ころ 山頭火

これは「三音・四音」と「四音・四音」の「七八」の音調で、『四分四拍子』の「二小節」しかないが、如何にも春らしい暖かい調べがあつて、とても面白い詩句だと言へよう。
この詩句は『三拍子』には向かない『拍子(リズム)』のやうに思はれるかも知れないだらうが、敢てして見ると、

3|4γ♪♪♪♪♪|♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪ζ|
       はるのやま からころころ いしころ  山頭火

 けれども、この儘では單に詩の一節であつて、完結した詩句にはなつてゐないので、上句に「野に出れば」といふ語句を加へて、

C♪♪♪♪†ζ|γ♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪♪♪♪♪|
    のにでれば   はるのやまから ころころいしころ

 と「五音・七音・八音」の音調にすれば、花といふ言葉がなくても、野原の花まで思ひ浮べる事が出來、風の音さへ聞えてきさうで、生命の躍動感が『拍子(リズム)』となつて句意に溢れてゐる。
但し、これでは「片歌」になつてしまふ、といふ難があるが、元が元だけに已むを得まい。

四つ目の詩句は、

Cγ♪♪♪♪♪♪♪|γ♪♪♪♪♪†|♪♪ζζζ|
    いやなゆめみた  あさのつめを きる
    いやな夢 見た  朝 の爪 を きる    山頭火

 これは「七句」の「三音・四音」と、「八句」の「三音・五音(或は三音・三音・二音)」の音調で、『四分四小節』の「三小節」あるものの、「三小節」目が「一拍」しか音として利用しないので、「二小節」と變りがないので不備の發句と言へるだらう。

3|4♪|♪♪♪♪♪♪|γ♪♪♪♪♪|†♪♪γ|
     い やなゆめみた  あさのつめ をきる

この句も「三拍子」には出來るが、句意を考へた時、「いやな夢」を「見た」事と「爪をきる」事に因果關係が薄く、夜に「爪をきる」のは不吉だ、といふので切らなかつたが、その爲に「いやな夢」を「見て」しまつたので、早速「爪をきる」といふのでは、餘りにも馬鹿らしい。
この句に「生きるほど」といふ上句を加へ、中句の「見た」を「見る」とし、下句を「爪をきる朝」と調べを滑らかにすれば、「五七七」の音調になるが、

C♪♪♪♪†ζ|γ♪♪♪♪♪♪♪|γ♪♪♪♪♪♪♪|
   生きるほど   いやなゆめみる  つめをきるあさ

しかし、かう變へて見た所で、それだけの詩句であり、形式的には何度もいふやうだが、「片歌」になつてしまつてゐる。
また、ここまで弄(いぢ)らなければならない詩句といふものは、發句としてどうなのかと考へさせられてしまふ。

最後に、

Cγ♪♪♪♪♪♪♪|†ζγ♪♪♪|♪♪♪♪ζζ|
    よへばさみしが る  きのめ くさのめ
    醉へばさみしが る  木の芽 草 の芽   山頭火

この句は、「八句(三音・五音)」と「七句(三音・四音)」の音調で、

Cγ♪♪♪♪♪♪♪|†ζζζ|γ♪♪♪♪♪♪♪|
    よへばさみしが る     きのめくさのめ 山頭火

かう詠む事も可能であり、また、

3|4♪|♪♪♪♪♪♪|†γ♪♪♪|♪♪♪♪γ|
     よ へばさみしが る きのめ くさのめ  山頭火

このやうに『四分三拍子』にも詠めるが、「醉ふ毎に」と上句を加へ、元の言葉の語順を入換へれば、

C♪♪♪♪†ζ|γ♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪†ζ|
   よふごとに   きのめくさのめ さみしがる

かう言葉を倒置しただけでも發句らしくなるし、更に、

C♪♪♪♪†ζ|γ♪♪♪♪♪♪♪|γ♪♪♪♪♪♪♪|
   醉ふごとに   世のさみしかる  きのめくさのめ

そもく「七音」が傷になるので、「片歌」としてこのやうに詠むだらう。

他に、尾崎放哉の詩句で、

C♪♪♪♪♪♪♪γ|♪♪ ♪♪♪♪♪γ|
   いれものがない  りようてでうける
   いれ物 がない  兩  手でうける  放哉

これは「四音・三音」と「五音・三音」の「七八」の音調で、「二小節」ともに最後に『八分休符(γ)』があるが、本來は『八分音符()』と『八分休符(γ)』を足した『四分音符()』である筈なのだが、敢てかうした理由は、この「休符」に『延長記號(フエルマアタア)』を附けたかつたからである。
また、

C♪♪♪♪†♪♪|♪♪ ♪♪♪♪♪γ|
   いれものがない りようてでうける

かうい
ふ詠み方も出來るだらうが、それでも「二小節」しかなく、發句になつてゐないと言へるだらう。

C♪♪♪♪♪♪†|ζζζζ|♪♪ ♪♪♪♪♪γ|
   いれものがない      りようてでうける

然し、發句としては、本當はかう詠むのが正しいのかも知れないが、それは下句があつての話である。また、

3|4♪♪♪♪♪♪|♪γ♪♪ ♪♪|♪♪†ζ|
     いれものがな い りようてで うける

このやうに『四分三拍子』に詠む事も出來るのは、これまでの句と變りがない。
意味としては、この詩句は作者個人としては大變好きな表現方法の一つである、と言へるが、全體的に表現不足の感を否めないと思はれる。
そこで下句に「檸檬(レモン)かな」と加へて、

C♪♪♪♪♪♪†|ζζζζ|♪♪ ♪♪♪♪†|♪♪♪♪†ζ|
   いれものがない      りようてでうける レモンかな

かうすれば幾らか發句らしくなつたと思はれるが、しかし、この場合だと『四分四拍子』には違ひないが、「四小節」になつてしまつた事に氣づかれるだらう
だが、『八分音符()』を『十六分音符』にするやうに、全ての音を半分にすると「四小節」が「二小節」になつて、先に「二小節」や「四小節」になる事があると言つたのはこの事であるが、これに就いては、後で述べる事があるかも知れないので、ここではこれ以上觸れないが、唯、音符の説明の時に『十六分音符』や『十六分休符』には音符記號がなかつたので、()とか(タン)とかの音の長さを何も表記しなかつたが、その『拍子(リズム)』の中で一番短い音を()と考へる事を基本にすれば、理解し易いと覺えておいてもらひたい。
そこで元の話に戻せば、前の句の「檸檬かな」を「檸檬の重さ」とすると、

C♪♪♪♪♪♪†|ζζζζ|♪♪ ♪♪♪♪†|♪♪♪♪♪♪†|
   いれものがない      りようてでうける レモンのおもさ

なんだか新體詩のやうだが、「重さ」といふ表現は捨て難いので、それをどうにかしたい。
そこで次のやうにすればどうか。

C♪♪♪♪♪♪†|ζζζζ|♪♪ ♪♪♪♪†|♪♪♪♪†ζ|
   いれものがない      りようてでうける くりおもし

「栗」になつてしまつた。


九、『十六音』の『字足らず』の『拍子』に就いて


次は『十六音』で、愈々(いよいよ)『字足らず』の最後に詩句となつた。
これも種田山頭火の作品で調べて見る事にする。

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    なみだこぼれて ゐる     なんのなみだぞ 山頭火

この句は「三音・四音・二音」と「三音・四音」の「九句」と「七句」の音調で、『四分四拍子』の「三小節」ではあるが、「二小節」目が「一拍」しかないので、「二小節」と變りがない事になつてしまふし、

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      なみだこぼ れてゐる   なんのなみ だぞ

このやうに『四分三拍子』にもなるが、この句が物足らなく思はれるのは、讀者にも「なんのなみだ」か解らない、獨り善()がりの詩句であるとふばかりでなく、何よりも『詠嘆』による『大休止』がないのが、最大の理由だと言へよう。

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    なみだこぼれて ゐる     なんのなみだぞ あきのそら

このやうに、下句に「秋の空」といふ「五句」を加へて、「九音・七音・五音」の音調にすれば、「四小節」になるものの、發句の響きを保つ事が出來るかと思はれる。
「四小節」になつたのは、上句の音數が、中句と下句を併(あは)せた音數と同じやうな長さになつた爲であると言へるだらう。
これを「三小節」にする爲には、二度も使はれてゐる「なみだ」といふ言葉を一度にし、「こぼれてゐる」といふ説明的な語句を「こぼるるは」とすればどうか。

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   こぼるるは    なんのなみだぞ あきのそら

二つ目の詩句は、

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     いさましくも かなしくも しろいはこ 山頭火
     いさましくも かなしくも 白 い函

といふ「六音・五音・五音」の音調で、『四分三拍子』である。
これは『三拍子』以外には出來にくい『拍子(リズム)』の詩句だと思はれるが、この「白い函」といふものが何であるのか前書がないと、一寸理解出來ないだらうと思はれる。
それは上句の「いさましくも」といふ「六音」が思考の邪魔をしてゐるからで、中句と下句の「かなしくも白い函」だけならば、容易に遺骨の壺を納めた白木の箱だと想像する事が出來る筈だ。
「いさましくも」は筆の走り過ぎである。
第一、この儘では發句とはならない。
何故なら、發句は『四拍子』でなければならないからである。
では、『四拍子』とする爲にはどうすれば善いかといふと、下句に「小さく」といふ五文字を加へると、

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   いさましくも  かな しくも しろい  はこはちいさく

このやうに「六音・八音・七音」の音調になり、中句に『三連符』があつて、『破調』を通り越して『破格』になつてしまつたが、『四分四拍子』の「三小節」で「片歌」條件に適ふ事になる。
それでも、この句が優れてゐるかどうかといふ事は問題の外にある。
單に形式が整つたからと言つて、名句とはならない。
發句は誰にでも作り易い形式だが、名句はさう容易(たやす)くはものに出來ない。
これは作者への自戒でもある。

最後の句は、「六音・五音・五音」の音調で、うまく靜けさを表現してゐる。

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   まちはずれは   ぼちとなる  なみのおと
   町 はずれは   墓地となる  波 の音   山頭火

發句の『一句二章』の形態を整へてゐるが、

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     まちはずれは ぼちとなる なみのおと

相變らず、このやうに『四分四拍子』に出來る。
『四拍子』にする爲には、

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   まちはずれは  ぼちとぞなりぬ なみのおと

と變へて見ても『季語』がなかつた。
全く「自由律俳句」といふものには困つたものである。

また、与謝蕪村の句に「五音・六音・五音」とも、「九音・七音」とも詠める作品があるが、これなどは、目で愉しむ可きであつて、詠む時は、

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   おちこちを   ちこちとうつ きぬたかな
   をちこちを   ちこちとうつ 砧  かな  蕪村

かう詠んで、發句の基本的『拍子(リズム)』である、『四分四拍子』の「三小節」を保たうとするだらう。


十、『字足らず』の『拍子』の限度に就いて


さて、以上述べて來たやうに、凡(およ)そ『字足らず』の句といふものは、言葉の音數の限界もあつて、内容が語り切れてゐない作品が多いやうに思はれる。
それは『一句二章』が成立してゐない事が、原因の總てであると言へるだらう。
『一句二章』とは、上句に『切字』があると假定すれば、そこまでを文節と見立てて『一章』とし、その『切字』から更にもう一つの文節がある、といふ二つの部分の『章』に分かれてゐるといふ事で、詰り、一番短い文章(センテンス)の二つが有機的に結びついたものを、發句と稱してゐるのである。
では、『字足らず』で許される限界とは、どのやうな音調であらうか。
以下、これから述べる事はその實證で、實例を掲げながら説明する事にしよう。

先づ、「四音・四音・四音」の「十二音」の音調を、「牡丹よ散りてぞ悲しき 不忍」の作品で、

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    ぼたんよ  ちりてぞ   かなしき

これが『字足らず』で、『四分四拍子』の「三小節」を保持した儘の形で出來得る最小のものと思はれる。
また、上句の「四音」といふのが、「三拍子」になりにくい音數だ、といふ事もそれを助けてゐると言へるだらう。
しかし、下手をすると「散りてぞ」と「悲しき」は、意味の繋がりがあるので、

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    ぼたんよ  ちりてぞかなしき

このやうに「二小節」に詠まれ兼ねないだらう。
寧ろ、この方が自然だと言はれても、文句の言ひようがない。
とすれば、下句の「悲しき」を變へるしかない。

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    ぼたんよ  ちりてぞ   むらさき

これで意味の上でも「牡丹よ散りてぞ」の『一章』と、「紫」の『一章』とで一句となり、作品として完結した事になる。
これこそが『一句二章』なのであるが、この切れ目を『切字』と言つてゐるのであるし、又、『切字』の見えない發句もあつて、一見「一句一章」のやうな形になる事もあるが、よく調べて見ると、大抵隱れた『一章』があるもので、『一句二章』は絶對的なものと言つても過言ではないだらう。
そこで、『十七文字』の定型に近づける爲に、中句の「四音」の「散りてぞ」を「散つて悲し」と「六音」にして、「四音・六音・四音」の「十四文字」の音調にすると、

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ぼたんよ  ちつてかなし むらさき

とかうなるか、或は、

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    ぼたんよ   ちつてかなし むらさき

かうなつて、これで幾らか發句らしくなつて來た。
更に、中句に「き」に「一音」加へて、「四音・七音・四音」の「一五文字」の音調にすると、『一七文字』に「二音」たりないだけになるから、

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    ぼたんよ   ちつてかなしき むらさき

このやうに、中句が「三音・四音」の「七音」の場合と、次に述べる「四音・三音」の「七音」の場合とがあつて、

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    ぼたんよ  ちりてぞかなし むらさき

響きはずつと良くなつたと思はれる。
この上は、下句に「濃紫(こむらさき)」と「一音」加へて、「四音・七音・五音」の音調にして見る外はない。

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    ぼたんよ  ちりてぞかなし こむらさき

ここまで來れば、最早發句としては充分鑑賞に堪へられる、といふ事が言へるだらう。
最後に、ここで思ひ出して戴きたいのは、「牡丹」が「ぼうたん」と「五音」に詠まれる、發句獨得の作法がある事で、それに從つて詠むと、

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   ぼうたんよ  ちりてぞかなし こむらさき

このやうになつて、これで完璧な發句といふ事が出來る。
(なほ)、「散つて」と「散りてぞ」の「三音」と「四音」の違ひは、下句との呼吸に關係があり、その呼吸は意味によつても決定される。
詳しい事は、得意の「後の項で述べる」といふ事にしておかう。
以上の實驗で解つた事は、「五七五」の音調の内、どれか一つだけを『字足らず』にするのが、調べとしては一番整ひ易いといふ事で、特に「上五句」よりも「下五句」が「五音」である方が、句に落着きがあると言へる。
それは、繰返して二度目に詠む事を前提とした時に、「下五句」の『餘韻』の「休符」に「二拍(ζζ)」を與へたくないといふ事も、理由の大きな一つに考へられるだらう。

『字足らず』の句の最小の音數を考へた場合、後は「上・中・下句」を、「一音」づつ減らして行くぐらゐが限界かと思はれる。
それ以上の『字足らず』になると、餘程、言葉を選らばなければ、發句としては成立し得ないといふ事である。
言葉を選ぶとは、出來るだけ意味を繋げず、しかも、型録(カタログ)のやうな商品説明にならずに、言葉を言ひ切るといふ意味である。
この例は難しく、敢て書くならば、

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   かぜよ    ぼたんよ  むらさき
これでも型録(カタログ)のやうである。
しかし、これなどは「風」と「牡丹」が、「紫」で一つの意味に繋がらうとしてはゐまいか。
但し、「上句」と「中句」の「よ」は『切字』だから、それが二つもあるのは宜しくない、といはれるかも知れない。
だが、中村草田男に、

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   ふるゆきや  めいぢはとほく なりにけり
   降る雪 や  明 治は遠 く なりにけり  草田男

といふ句があり、「や」と「けり」の二つの『切字』がある。
有名な作家の句があるから、その事が免罪符になるといふ考へは危険であるが、作者にも、

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   しぐるるや  泣きゆる宵 の くらさかな  不忍

といふ句があり、これなども「や」と「かな」の『切字』がふたつある。
『切字』が二つあると駄目だといふ理由は、『一句二章』が「一句三章」になつてしまふからで、先程から述べてゐるやうに型録(カタログ)になるからで、これらに比べて、例へば、

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   めには あをば  やまほととぎす はつがつを
   目には 青 葉  山  時 鳥  初  鰹   山口素堂

この句は全體を詠んで、それが春の風物である事を現してゐるから、寫生の缺點(けつてん)ともいふべき型録になつてゐて、それが言葉として一つの心の象徴として纏(まとま)らうとしてゐない。
『切字』に於ける「句切れ」といふものは、心理的葛藤を自然(季語)などと一つに統一しよう、といふ動き出ある事を忘れてはならないと言へるだらう。
矢張、『五七五』による『十七文字』の發句を作るに如()くはない。

  
  一九八七年昭和六十二丁卯年六月二十二日




     續きをどうぞ

Ⅱ、發句(ほつく)拍子(リズム)論 A Hokku poetry rhythm theory
http://ahuminosinobazu.blogspot.jp/2012/02/hokku-poetry-rhythm-theory.html





















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